第46話 写真1枚で壊れた朝
(岡あまね視点)
昨日――佑太君と、初めてラブホテルに行った。
その記憶が、まだ身体の内側に残っているみたいで。
歩く度に、ふとした拍子に思い出してしまう。
(……あたし、何してるんだろ)
そう思うのに。
嫌な気は、しなかった。
むしろ――どこか満たされている。
そんな昨日には無かった感覚が、胸の奥にあった。
気づけば、足取りは軽くなっていた。
校門をくぐる時間も、いつもより早い。
時計を見ると、いつもより3分も早かった。
(早すぎ……)
自分でも少し笑ってしまう。
たったそれだけのことなのに、今日は全部が少しだけ明るく見えた。
廊下を歩く。
朝のざわめき。
友達同士の笑い声。
いつもと変わらないはずの光景。
なのに――
教室の前に立った瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
理由は分からない。
ただ、空気が少し重い気がした。
ドアに手をかける。
深呼吸をひとつ。
ガラッ。
教室に入る。
――その瞬間だった。
ざわめきが、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
けれど、はっきりと分かる沈黙。
そして。
視線。
いくつもの目が、一斉にあたしに向けられる。
(……え?)
肌が、ざわつく。
教室の空気が、明らかにおかしい。
その違和感を言葉にできないまま――
「あ、ビッチが来た」
乾いた声が、教室の奥から飛んできた。
1拍、遅れて意味が頭に入る。
そして――理解した瞬間。
身体の奥が、一気に熱くなる。
「な、なによ……その言い方!」
思わず声が出た。
自分でも驚くくらい、大きく強い声だった。
でも、抑えられなかった。
いきなり、何。
朝、教室に入っただけで、こんなこと言われる意味が分からない。
(ビッチって……ふざけてるでしょ)
視線を向ける。
言った女子は面倒くさそうに笑っていた。
「うるさいわね」
吐き捨てるように言う。
「これ見て言ってんの。言われて当然でしょ」
そう言って、その女子は近くの机に置かれた紙を拾い上げた。
そして、ためらいもなく――
あたしの目の前に差し出す。
「え……」
呼吸が止まる。
視界が、狭くなる。
紙に映っているものを、理解するまでに、ほんの数秒かかった。
――あたしと、佑太君。
ホテルの入口。
並んで歩いている。
その直前の一瞬。
横顔が、はっきりと写っている。
(……なんで……)
頭の中が、真っ白になる。
誰が撮ったのか。
いつ撮られたのか。
どうしてここにあるのか。
何1つ分からない。
「その顔」
女子の声が、やけに近くに聞こえる。
「図星って顔してるけど?」
ぞくり、と背筋が冷える。
周りがざわつき始める。
「やっぱりマジじゃん」
「男子が持ってきたやつ、本物だったんだな」
「青井と付き合ってるだけでもヤバいのにさ」
「しかもまだ関係が続いてて、ホテルとか」
「普通に引くわ」
声が、増えていく。
あっという間に教室全体に広がる。
止まらない。
どこからも聞こえてくる。
逃げ場がない。
心臓が、やけに速く打つ。
耳の奥で、自分の鼓動だけが大きく響く。
(やばい……)
視線が刺さる。
さっきまでの日常が、嘘みたいに崩れていく。
身体が自然と小さくなる。
肩がすくむ。
息が浅い。
(これ……拡まったら……)
考えたくない未来ばかりが浮かぶ。
そのとき。
「新聞部の記事も、本当っぽいよな」
男子の声が、教室の空気を引き寄せた。
「あのときは半信半疑だったけど、これはもう確定だろ」
「確かに」
「記事、すぐ消えたよね」
「誰かが剥がしたんだろ?」
「つまり、隠したかったってことじゃん」
「岡って赤岩と付き合ってなかった?」
「じゃあ普通に浮気じゃね?」
「寝取られってやつ?」
「うわ、それって最低」
「赤岩君かわいそう」
「マジで無理」
1つ1つの言葉が、鈍い痛みになって身体に入ってくる。
反論しようとする。
でも。
声が出ない。
喉が、締まる。
(違う……)
そう思っているのに、何も言えない。
そのとき。
「おーい、そろそろホームルーム始めるぞ」
担任の声が、教室に入ってくる。
空気が、わずかに揺れる。
視線が、一斉に教壇へ移る。
――けれど。
「あ、先生。これ見てください」
さっきの女子が、間髪入れずに動いた。
(やめて……)
「あ、ちょ……待って……!」
手を伸ばす。
でも、距離が遠い。
女子はもう教壇の前にいた。
「今朝、男子が持ってきたんですけど」
紙を差し出す。
担任が、それを受け取る。
「……なんだ…これは……」
声が、低くなる。
顔つきが、変わる。
明らかに、動揺している。
眼鏡を外し、目頭を押さえる。
もう1度、写真を見る。
沈黙。
教室の空気が、重く沈む。
誰も、何も言わない。
その数秒が、やけに長く感じた。
やがて――
担任が、ゆっくりと教壇を降りる。
その表情は、見たことがないほど厳しかった。
足音が近づく。
ズン。
ズン。
1歩ずつ、確実に近づいてくる。
一定のリズムで。
逃げ場がない。
気づけば、あたしの目の前。
「岡」
低い声。
「話がある」
感情が削ぎ落とされた、事務的な声音。
「……はい」
視線を上げられない。
ただ、小さく頷く。
「来い」
短く言って、担任は背を向ける。
そのまま、教室の出口へ向かう。
逆らう余地なんてなかった。
足が勝手に動く。
後をついていく。
周囲の視線が、また戻ってくる。
さっきよりも、はっきりとしたもの。
興味じゃない。
軽蔑。
拒絶。
(……痛い)
何もされていないのに、身体が傷つく感覚。
歩くたびに、背中に刺さる。
でも、止まれない。
止まったら、全部崩れそうだった。
教室の戸をくぐる直前。
振り返る余裕なんてなかった。
ただ1つだけ、はっきりしていたのは――
さっきまで感じていた「満たされている感覚」が、
もう、どこにも残っていないということだった。
担任の背中を追いながら。
あたしは、教室を出た。




