表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/66

第26話 被害届のために警察に

(赤岩陽太視点)


 病院で診断書を受け取った後、俺達はそのままお母さんの車に乗り込み、地元の警察署へ向かった。


 夜の道路は、昼間よりずっと静かだった。


 窓の外を流れていく街灯の光が、一定のリズムで車内を照らしては消えていく。


 お母さんがハンドルを握り、俺は後部座席に座っていた。隣には美月がいる。


 誰も、軽い雑談なんてしなかった。


 車内にはエンジン音と、タイヤがアスファルトを滑る音だけが響いている。


 その静けさが、逆に現実を突きつけてくる。


 俺は膝の上で拳を握った。


 さっきまで俺たちは病院にいた。


 医者に診てもらい、診断書を書いてもらって。


 そして今、向かっているのは――警察署だ。


 もう、本当に後戻りはできない。


 そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まるような感覚がした。


「大丈夫?」


 隣から、美月が小さな声で聞いてきた。


 俺は少しだけ顔を向ける。


 美月は心配そうな表情で、まっすぐ俺を見つめていた。


「……うん」


 本当は、大丈夫なんかじゃない。


 それでも、ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。


「大丈夫じゃなくてもいいの。今日はちゃんと話せれば、それで十分よ」


 前の席でハンドルを握ったまま、お母さんが静かに言う。


 その声は落ち着いていて、不思議と安心感があった。


「大丈夫。私もついてるから」


 美月が、膝の上で握っていた俺の右手を、そっと両手で包み込む。


「……美月」


 俺は隣を見る。


「……陽太君」


 美月も、小さく俺の名前を呼んだ。


 そのぬくもりだけで、張りつめていた心が少しだけほどける。


「ほら、そこ。イチャイチャしない」


 お母さんの声が飛んできた。


 俺と美月は慌てて前を向き、姿勢を正す。


 やがて車は警察署の敷地に入った。


 建物前の駐車場に、お母さんはゆっくり車を停める。


 エンジンが止まると、車内は急に静まり返った。


「行くわよ」


 短く言って、お母さんがドアを開ける。


 俺たちも続いて車を降りた。


 夜の空気はひんやりしていて、妙に冷たく感じた。


 お母さんが先頭に立ち、俺と美月がその後を追う。


 警察署の入口へ向かう足音が、アスファルトの上にコツ、コツと響いた。


 ガラス張りの自動ドアの前に立つと、センサーが反応して静かに扉が開く。


 中は白い照明に照らされ、外よりもずっと明るかった。


 一瞬、目がその明るさに慣れない。


 受付カウンターの向こうには、制服姿の警察官が座っていた。


 お母さんは足を止め、落ち着いた声で話しかける。


「すみません。被害届を出したいのですが、よろしいでしょうか?」


 警察官が顔を上げた。


 40代くらいの男性だった。


「被害届ですか?」


「はい。息子が暴力を受けました」


 お母さんは淡々と答える。


 警察官の視線が俺の顔に向く。


 腫れている鼻や頬を見て、わずかに表情が変わった。


「……これはいつの出来事ですか?」


「昨日です。学校で同級生に殴られました」


 お母さんはバッグから封筒を取り出す。


「こちらが病院の診断書です」


 警察官はそれを受け取り、中身を確認した。


「……なるほど」


 声色が、少しだけ重くなる。


 事務的だった表情が、わずかに真剣なものに変わった。


「詳しいお話を窺いたいので、こちらへどうぞ」


 警察官はカウンター横の通路を指した。


 その奥には、小さな相談室のような部屋が見える。


 俺たちは警察官の後について歩いた。


 警察署の中は静かだった。


 遠くで電話の音が一瞬だけ鳴り、すぐに消える。


 ガチャ。


 小さな部屋のドアが開いた。


 中には机とイスが置かれている。


「どうぞ、座ってください」


 警察官に促され、俺、お母さん、美月の順番でイスに座った。


 警察官も向かい側に腰を下ろし、メモ帳を開く。


 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


「では、まず確認させてください」


 警察官は俺を見た。


「殴った相手の名前は分かりますか?」


 俺は小さく息を吸った。


「……青井です。俺と同じクラスの生徒です」


 警察官のペンが動く。


「状況を詳しく教えてください」


 俺は昨日の出来事を思い返しながら、ゆっくり話し始めた。


 朝、学校に登校したばかりのとき。


 青井に胸ぐらを掴まれ、殴られたこと。


 担任が介入したこと。


 保健室に行ったこと。


 そして本日、お母さんに話したこと。


 恐怖と怒りを押さえ込みながら、順番に説明していく。


 警察官は何度も頷きながら、黙々とメモを取っていた。


「目撃していた生徒は複数いる、ということでいいですか?」


「はい。クラスに何人もいました」


「相手から何か言われたりはしましたか?」


「……脅すような言葉を言われました」


 警察官はそれも書き留める。


 部屋の空気は静かだった。


 その静けさの中で、自分の声だけがやけにはっきり響いている気がする。


 俺が話している内容は、もう学校の揉め事なんかじゃない。


 これは――事件なんだ。


 その事実が、少しずつ胸の奥に落ちてくる。


「なるほど……」


 警察官は一度ペンを止めた。


 そして俺たちを順番に見たあと、静かに言った。


「診断書もありますし……これは暴力事件として扱うことになりますね」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがわずかに動いた。


 怖さはある。


 緊張もしている。


 でも同時に――


 ようやくここまで来た、という感覚もあった。


 隣で、お母さんが静かに口を開く。


「お願いします」


 その声は、少しも揺れていなかった。


「では、被害届を作成します」


 警察官が立ち上がる。


 俺は膝の上に置いた手に力を込めた。


 ここまで来たら、最後までやってやる。


 そう心の中で言い聞かせながら、俺はまっすぐ前を見た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ