第九章 温度の嘘
山岸は広瀬のマンションからの帰り、中島と一緒に田所探偵事務所へ来ていた。
夜の帳が降り始めた新宿三丁目は、ネオンと車のライトに照らされ、昼間とは別の顔を見せている。
扉を開けると、いつもの静かな空気が迎えた。
「すまん。愛人のところへ寄ってたんで遅くなっちまったんで部下も連れてきたんだが良いか?」
山岸がそう言うと、田所は椅子に座ったまま顔を上げた。
「部下は良いんだが、山岸さん、愛人がいたのか?」
山岸が即座に声を荒げる。
「俺のじゃねえよ! 被害者のだ!」
田所は小さく頷く。
「だと思った」
「全く、お前は……」
山岸は肩を落とし、後ろにいる中島を促す。
「おい、自己紹介しろ」
中島が一歩前に出る。
「山岸警部の部下の中島裕介巡査です」
田所が軽く会釈する。
「所長の田所です」
夏野も続ける。
「秘書の夏野です。どうぞお掛けになって下さい。今、コーヒー淹れますね」
「ありがとうございます」
山岸と中島はソファーに腰を下ろす。向かい側に田所が座る。
中島が少し緊張した様子で口を開く。
「田所さんのお噂はかねがね……」
田所は即座に返す。
「ろくな事言ってないでしょ」
「いえいえ。椅子に座ったままでどんな難事件も解決する名探偵だって聞いてますよ」
山岸が横から嫌味っぽく口を挟む。
「ああ。それに裸何とか鼠が癌にかからないとかも知ってる博学だ」
中島が感心したように頷く。
「ハダカデバネズミですか? へぇー、そんな事も知ってるんですね。確かに博学ですね」
田所は軽く肩をすくめる。
「な? 役に立っただろ」
山岸は苦笑する。
「ああ。どんな知識も使い方次第で役に立つことを学んだよ」
そのやり取りの間に、夏野がコーヒーを出し、田所の隣に腰を下ろす。
田所はカップに手を伸ばしながら言った。
「ところで、聞き込みはどうだった?」
山岸は一息つき、村井哲也と広瀬陽菜に聞いた内容を順に伝える。
報告が終わると、田所はわずかに目を細めた。
「……なるほど……愛人は動機が薄いな」
「だが、アリバイは無いし証言が本当かどうか分からないし、愛人と言う立場上、容疑者からは外せんな」
「そうだな」
夏野が整理するように言う。
「そうすると容疑者は被害者の奥さんである村井真理さん、被害者の実弟の村井哲也さん、専務から副社長に昇進した中野雄一さん、被害者の愛人の広瀬陽菜さん、丸長食品の長谷川隆さん、佐久間不動産の佐久間直人さんの六人ですね」
中島が頷く。
「動機の薄い愛人とアリバイのある妻は除外できそうですね」
山岸が視線を田所へ向ける。
「田所、どう思う?」
「まだだな」
短く答えた後、田所はふと別のことを思い出したように顔を上げた。
「ところで、深部体温の件はどうなった?」
山岸が「あっ」と小さく声を漏らす。
「すまん。忘れてた。えーと……」
手帳を取り出し、ページをめくる。
「監察医務院に運ばれてから一時間ほど経ってからだが、温度は11.8℃だったそうだ」
その数字に、田所の視線がわずかに鋭くなる。
「夏野君。遺体発見時の気温を調べてくれ」
「分かりました」
夏野は席を立ち、自分のデスクのパソコンで検索する。
数秒後、振り返った。
「遺体発見時の新宿の気温は15℃です」
「そうか……」
田所は小さく呟いた。
「アリバイが全部ひっくり返るな」
山岸が身を乗り出す。
「どういうことだ?」
田所は手元のコーヒーを指先で軽く揺らしながら言った。
「このコーヒー、飲まずに放っておいたら温度はどうなる?」
「そりゃ、冷めて温度が下がるだろ」
「そうだな。じゃあ、冷えたビールがあるとしよう。飲まずに放っておいたら温度はどうなる?」
中島が答える。
「温くなりますね」
田所はゆっくり頷く。
「一方は冷めていき、もう一方は温くなる。何でだ?」
夏野が考えながら答える。
「それは、気温の影響を受けて、気温より高い物も気温よりも低いものも気温に近づいて行くからでは?」
「そうだ。では体温36℃の遺体が気温15℃のところに置かれたらどうなる?」
山岸が目を見開く。
「そうか! 体温36℃の遺体を15℃のところに置いても11.8℃になるわけないって事か!」
中島がすぐに疑問を投げる。
「でも夜中に気温が下がっていたらどうですか?」
田所は首を横に振る。
「深夜に気温が下がっていたとしても、深部体温はそんなに直ぐに外気温に左右されない。逆に直ぐに左右される体の表面なら、遺体発見後一時間も経ってからならもっと外気温に近い温度になってなければいけない」
夏野が納得したように頷く。
「たしかにそうですね」
田所は結論を口にした。
「とにかく、遺体は外気温より低いところで時間をかけて身体の中心部まで充分に冷やされた状態で遺棄されたって事だ」
山岸が腕を組む。
「冷凍庫か冷蔵庫か」
「冷凍庫ならもっと温度が低いと思うし、遺体を凍らせると水分が膨張して細胞が破壊されるから調べれば凍らせていたのが分かる。だからおそらく冷蔵庫だな」
夏野が補足する。
「食品の輸送会社なら大きな冷蔵庫もありますからね」
山岸が唸る。
「これで容疑者が絞り込めるか?」
「いや、まだだな。村井運輸と丸長食品には冷蔵倉庫がある。東都オートサービスには冷蔵トラックがある。佐久間不動産の扱ってる物件に冷蔵倉庫もあるだろう。だが、何処に保管されていたかが分かればかなり絞り込める。周辺の防犯カメラをあたってみてくれ。それから冷蔵庫の温度が上がったタイミング」
山岸がすぐに理解する。
「分かった。冷蔵庫の温度が上がったタイミングに遺体が入れられた可能性が高いって事だな」
「そうだ」
田所は短く答えた。
山岸は立ち上がる。
「分かった。早速、署に戻って手配する」
中島もそれに続く。
二人はそのまま事務所を後にした。
扉が閉まる。
残された静寂の中で、田所はカップに残ったコーヒーを見つめていた。
温度は、必ず環境に近づく。
だが――
“どこから近づいたか”までは、誤魔化せない。




