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第八章 愛人

 車内に、短い着信音が響いた。

助手席の中島が応答し、要点だけを引き出すように短くやり取りを重ねる。

「……はい……はい……分かりました。ありがとうございます」

通話を終え、携帯をダッシュボードに置く。

山岸が横目で見る。

「どうだ?」

中島はメモを確認しながら答えた。

「愛人の情報です。広瀬陽菜、三十二歳、独身。東都オートサービス株式会社というカーディーラーで整備受付をしています。村井運輸の車はほとんどが東都オートサービスから納車されているそうです。もちろん整備も担当しているようです」

山岸は小さく頷く。

「整備がらみの仕事をしているなら不凍液も簡単に手に入れられそうだな」

「そうですね。あとは動機とアリバイですね」

中島の言葉に、山岸は視線を前に向けたまま続ける。

「ただ、田所探偵事務所の調査では妻の真理が依頼に来てから愛人の動向を探っていたようだが、被害者との接触は無かったようだ」

「もし、本当に会ってないなら殺す機会すらなかったことになりますね」

「そうだな。まぁ、とにかく話を聞いてみよう」

山岸は短く言い、車を減速させた。


 マンション前の道路に車を止める。

中規模の集合住宅。外観は新しくはないが、管理は行き届いている印象だった。

二人はエントランスを抜け、エレベーターで目的の階へ向かう。

部屋の前に着き、チャイムを鳴らす。

わずかな間の後、ドアが開いた。

ショートヘアの女性が顔をのぞかせる。整った顔立ちに、仕事帰りらしい落ち着いた服装。

広瀬陽菜。

中島が小さく名を確認するように視線を動かす。

山岸が警察手帳を示す。

「新宿東警察署刑事部の山岸と中島です。お知り合いの村井勝也さんが亡くなりましたのでお話を伺いたいのですが」

広瀬の表情が一瞬で変わる。

「勝也さん、亡くなったんですか!?」

「はい」

短く答える。

「いつですか?」

「一昨日の夜から昨日の朝にかけてです」

広瀬は息を呑む。

「そんな……!」

そのまま言葉を失い、数秒間その場に立ち尽くす。

やがて、小さく頷いた。

「……分かりました。中へどうぞ」

二人を室内へ招き入れる。

 ダイニングに通され、山岸と中島が椅子に掛ける。

室内は整っている。生活感はあるが、無駄なものは少ない。

「今、お茶入れますね」

広瀬が立ち上がりかける。

山岸がそれを制した。

「いえ。少しお話を伺うだけで直ぐ帰りますからお構いなく」

「分かりました」

広瀬は再び席に着く。

向かい合う形で、三人の距離が定まる。

広瀬が口を開いた。

「何故亡くなったんですか?」

山岸は淡々と答える。

「エチレングリコール中毒です」

広瀬の目がわずかに開かれる。

「不凍液ですか?」

中島が反応する。

「知ってるんですか?」

広瀬は小さく頷いた。

「カーディーラーで整備受付をしてますから、車の整備に使うものに関しては一通りの知識はあります」

山岸は視線を外さない。

「村井勝也さんとは不倫関係にありましたよね」

広瀬は一瞬、言葉に詰まる。

「それは……」

「奥さんも専務の中野さんも知ってますから、今更隠しても疑いが深まるだけですよ」

山岸の言葉に、広瀬は小さく息を吐いた。

「そうですか……奥さんも知ってるんですね……」

視線を落とす。

「ええ、勝也さんと不倫してました」

山岸は間を置かず続ける。

「その件でトラブルは有りませんでしたか? 別れ話が出たり、奥さんと揉めたりとか」

「いえ。別れ話もありませんでしたし、奥さんが知ってたことも知りませんでした」

淡々とした答え。

だが、その奥にどこか距離を置いたような響きがあった。

「最後に会ったのはいつですか?」

「六日前の夜です。仕事帰りにここに寄って、深夜に帰りました」

中島がメモを取りながら続ける。

「殺害時刻と思われる、一昨日の夜から昨日の朝にかけては、何処で何をしてましたか?」

広瀬は迷いなく答える。

「仕事が終わったのが午後七時で、まっすぐ帰ってきたので、午後八時くらいから翌朝八時に出勤するために家を出るまで、ずっとここに一人でいました」

「証人はいないという事ですね」

「はい……」

その声は小さい。

山岸は少しだけ視線を緩める。

誰か、被害者を殺害しそうな人に心当たりは有りませんか?」

広瀬は考えるように目を伏せた。

「そうですね……勝也さんは弟さんとはそりが合わなかったみたいで、臨時株主総会でクビにするって言ってましたから、その事を弟さんが知っていれば動機にはなると思います。あとは専務の中野さんは酷い扱いを受けていましたので……」

山岸は頷く。

「分かりました。ありがとうございます。何か他に気付いたことがあればご連絡ください」

名刺を差し出す。

広瀬はそれを受け取り、小さく頭を下げた。

 マンションを出て、二人は車へ戻る。

夜の気配が、ゆっくりと街に降り始めていた。

中島が助手席でメモを見返す。

「動機はありますね。不倫関係にあって、不凍液の知識もある」

山岸はエンジンをかけながら答える。

「最後に有ったのが六日前と言うのは中野の証言とも一致する。だがその後、接触が無い。そこが引っかかる」

静かな声だった。

車が動き出す。

容疑者は揃っている。

だが、どれも決定打にはならない。

むしろ――

どこか、噛み合っていない。

その違和感だけが、確実に積み重なっていた。

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