第十章 密談
二日後の午前十時ごろ。
新宿三丁目の雑居ビル五階は、いつも通り静かだった。外では車の音や人のざわめきが途切れず流れているはずなのに、この部屋の中だけは妙に空気が澄んでいる。
その静けさの中へ、山岸が入ってきた。
田所は椅子に深く腰掛けたまま、その顔を見るなり言った。
「浮かない顔してるな」
山岸は苦い顔で机の前に立つ。
「ああ。先ず、冷蔵庫に遺体が保管されてた事を前提に死亡時刻を見直してもらったんだが、その時刻のアリバイは誰も無かった。妻のアリバイも完全になくなって、余計に絞り込めなくなった」
田所は小さく頷いた。
「全員容疑者のままって事か」
「そうだ。そして、その前後の冷蔵庫の防犯カメラだの映像だが、村井運輸の映像は消されていた」
その言葉に、夏野がわずかに視線を上げる。
田所は表情を変えないまま言った。
「じゃあ、容疑者は妻、弟、中野の三人に絞り込めたわけだ」
山岸はすぐには頷かない。
「だが、他の容疑者が村井運輸の倉庫を使ったとも考えられる」
「確かにそうだが、防犯カメラの映像を消せる人物だと考えれば村井運輸の三人が容疑者になる」
「村井運輸の三人の内の誰かとそれ以外の誰かが共犯だとしたら?」
山岸の反論に対して、田所はわずかに身を起こした。
「単独犯だよ」
山岸が眉をひそめる。
「何故言い切れる?」
田所は淡々と答えた。
「共犯がいるなら示し合わせて完璧なアリバイ工作をするはずだ。本当の犯行時刻にも偽装した犯行時刻にも完璧なアリバイがある人物が一人もいないって事は単独犯だ」
山岸は短く息を吐く。
「なるほど」
その言葉に納得はあっても、まだ確信には至っていない。顔にはそんな色が残っていた。
田所は机の引き出しを開ける。
「それで、こちらは面白いものを手に入れた」
山岸が顔を上げる。
「何だ?」
田所は小さなICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
機械越しの、やや乾いた音声が部屋に流れ始める。
『義姉さん』
『哲也くん。どうしたの?こんなところに呼び出して。我慢できなくなった?』
『そうじゃないよ』
『本当に義姉さんじゃないよね?』
『何が?』
『兄貴を殺したのだよ』
『違うわよ。でも。殺してくれた人に感謝しないとね』
『義姉さんが言う通り、臨時株主総会で俺をクビにしようとしてたんだとしたら確かに助かったけど』
『間違いないわ。勝也が浮気してるのに気づいて興信所に調査を頼んだんだけど、勝也が愛人にそう言ってたらしいから』
『そうか……本当だったんだね』
『そうよ。でも勝也が死んで哲也くんが社長になったんだから、もう心配ないよ。勝也の株は私が全部相続するから、会社は私の思い通り。という事は哲也くんが私を裏切らなければ哲也くんの思い通りって事』
『大丈夫。裏切ったりしないよ』
『愛してるわ』
『俺もだよ、真理』
『……』
再生が終わると、事務所に重い沈黙が落ちた。
山岸が低く声を漏らす。
「これは……」
田所はレコーダーを机に置いた。
「これはウチの各務が手に入れた、妻と弟の密談だ。どうやって手に入れたかは企業秘密だ」
山岸は呆れたように、だが感心を隠しきれない顔で言った。
「お前のところは調査員も優秀だな」
「ああ。うちは全員優秀だ。秘書もな」
夏野は目を丸くし、それからほんの少しだけ口元を和らげた。
「先生にそうな風に思われているなんて嬉しいです」
山岸はそれには触れず、もう一度レコーダーを見る。
「しかし、妻も弟と不倫してたとはな……。この内容だと、弟は臨時株主総会でクビになる筈だったことに確信は無かったようだ」
田所は頷く。
「そうだな。これで弟は除外できる」
夏野が言う。
「妻も犯行を否定してますけど」
「それは信用できないな」
田所はあっさりと切り捨てた。
山岸は腕を組む。
「でも、これで妻か中野の二人にほぼ絞り込めたな」
「ああ」
田所の声は静かだった。
「防犯カメラの映像を消せたのは誰かも調べてくれ」
山岸は頷く。
「分かった」
短く答えると、そのまま踵を返した。
扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
容疑者は絞られつつある。だが、まだ足りない。中野か、真理か。片方を完全に切り、もう片方を刺し貫くには、あと一つ決定打がいる。
山岸はそのことを、田所も同じように感じているのだと分かっていた。
ドアが閉まる。
再び静かになった事務所で、田所はICレコーダーを見つめたまま動かなかった。
真理は嘘をついている。
だが、それだけでは足りない。
嘘は、証拠にならない。
証拠になるのは、嘘をつくために人間が動かした“何か”だけだ。




