第7話 そして彼女は猫になる
習慣というものは怖いもので、タマさんが来ないことは内心で理解しつつ、僕は未練がましく七月にも『喫茶 夜の猫』を訪れた。
珊瑚と触れ合えるようにするという約束は一月に達成されたので、タマさんと僕が毎月第三水曜日の午後七時半に会う理由はない。だから、タマさんが毎月決まった日時に来なくなったのは仕方ないと思っていた。ところが、マスターに訊いてみたところ、一月のあの日以来、一度も姿を見ていないとのことだった。せっかく珊瑚と触れ合えるようになったというのに、一度も来ていないだなんて不自然に思えた。
ただ、僕にはその不自然をタマさんに確かめる術がない。タマさんの本名も連絡先も、ましてや勤め先やどこに住んでいるかも知らないからだ。だから、唯一タマさんとの繋がりがあった『喫茶 夜の猫』で、わずかな可能性に賭けて毎月第三水曜日の午後七時半にタマさんを待ち続けている。
いつもの窓際の席に座るとマスターがやってきた。僕の前におしぼりとお冷を置いて、温かみのある優しく低い声で「ご注文は?」とマスターが訊いてきた。
僕は少し迷って、いつか食べようと決めていたものを注文することにした。
「ブルーベリーのタルトケーキとアイスコーヒーをください」
「かしこまりました」
マスターそう言って、カウンターの向こうに行ってしまった。
マスターと入れ替わるようにして、珊瑚が足元にすり寄ってきた。軽く頭を撫でてあげると僕の膝の上に飛び乗ってきた。顎の下を撫でると気持ちよさそうに目を細めながら、ゴロゴロと鳴き始める。
一月に珊瑚を撫でていたタマさんのことを思い出す。どこまでも幸せそうな顔をしていた彼女は、いまどこで何をしているのだろう。
しばらく珊瑚を撫でていると、注文したブルーベリーのタルトケーキとアイスコーヒーが運ばれてきた。
ブルーベリーのタルトケーキは、タマさんが食べていた時と変わらず魅力的に見えた。フォークを手に取り、ケーキを一口大に切り分ける。ブルーベリーが二個ほどケーキの上から皿に落ちたが、気にせず切り分けたケーキを食べる。
タマさんいつか言っていたように、まずブルーベリーの実の甘酸っぱさとジャムの甘さが口に広がった。そして、それを追いかけるようにレアチーズのムースの味がする……はずだった。
僕は自身が食べたケーキの味に僅かな違和感を覚えた。
気のせいかもしれないと思って、もう一度ケーキを口にする。やはり、違和感がある。
一度、水を飲んで口をリセットしてから、次はケーキの中央にある白いムース部分だけを掬い取って、食べてみた。タマさんがレアチーズのムースと言っていた部分だ。その味に僅かな違和感を覚えた。
普通に食べる分には、まずなにも思わない。美味しく、バランスの取れたブルーベリーのタルトケーキだと思うだろう。ただ、僕だけが違和感を覚えた。それは、僕がムース部分をレアチーズのムースだとタマさんから聞いていて、そうだと思って食べているからだ。僕が食べているムースの味は、レアチーズのムースの味とは違っている。
僕はパティシエでも、パティシエ志望でもないただの大学生なので、ムースの正体については考えることをせずにマスターに訊くことにした。
マスターは快くブルーベリーのタルトケーキに使われているムースがなんなのか教えてくれた。それを聞いて、僕はもう一つマスターに質問した。その答えがさらにいくつかの疑問を生んだが、今はどうにもできないので明日にでも調べてみようと思った。
ブルーベリーのタルトケーキは美味しかったが、タマさんの言っていた幸せの味はしなかった。
翌日、大学の講義と講義の合間を縫って僕は図書館に来ていた。
僕の通う大学の図書館は、明るく開放感のある図書館をイメージしたのか、壁面に窓ガラスが多用されたデザインになっている。しかし、本の日焼け対策として、一年のほとんどは窓にスクリーンが降ろされており、イメージとは逆行した状態で運営されている。
薄暗く感じる図書館内を目的の書架を目指して歩く。目的の本がある書架はなんども利用しているところなので、迷うことなくたどり着くことができた。
書架を前にして、僕は立ちすくんで考える。
自分が今からやろうとしていることは、きっとどこまでいっても自己満足でしかない。タマさんがどうしていなくなってしまったのか、その理由を推測することはできてもそれ以上、僕にはなにもできない。タマさんに会う手段も場所もないのだから。
どれほどその場に居たのだろうか。いや、実際にはたいした時間も経っていないだろう。静寂に包まれた図書館では、時間の感覚がどこまでも延ばされているように感じた。一秒が一分にでも感じてしまうような空間の中で、心の内に潜む声がはっきりと聞こえた。
「このままでいいのか」
そいつの問いかけが聞こえる。
今までは、僅かな隙間に潜り込むようにしか聞こえていなかった声が確かな輪郭をもって問いかけてくる。
「このままでいいのか」
二の句があるわけでもなく、そいつはただ同じ言葉だけを繰り返す。
そいつの言葉を今まで呪いのようなものだと思っていた。いつか誰かにかけられた言葉だと思っていた。でも、違った。静寂の中、聞こえる声は確かに僕自身の声だった。
僕が僕に問いかける。
「このままでいいのか」
このままでいいわけがない。
書架から一冊の本を抜き取る。
心と身体の関係性についての書籍だ。三百頁くらいはあるだろう書籍をその場で開いて、ますは目次のページを確認する。調べたいことについて書かれているであろう題目を見つけたので、そのページまでパラパラと書籍をめくる。ちょうど真ん中の当たりでめくる手を止めた。
開かれたページを斜め読みして、一人ため息をつく。
改めて内容を理解すべく、もう一度内容を確認する。
書籍にこう記されていた。
―うつ病の症状の一つとして、感覚の鈍麻、身体感覚の麻痺が挙げられる。感覚とはすなわち五感のことである。症例として、食事の味がしない。寒さ・暑さ・痛みを感じない・感じにくくなるなどがある。……―
昨日食べたブルーベリーのタルトケーキの味とマスターが言っていたことを思い出す。
ブルーベリーのタルトケーキは美味しかった。しかし、タマさんが言っていた幸せの味ではなかった。タマさん曰く、白いムース部分はレアチーズのムースとのことだったが、昨日食べたものはレアチーズのムースではなく、ヨーグルトのムースだった。僕はそこに違和感を覚えた。マスターに確認したところ、たしかにレアチーズのムースだった時もあったそうだが、タマさんが僕の前でブルーベリーのタルトケーキを食べた十二月のあの日には、すでにヨーグルトのムースに変更して提供していたとのことだった。
言葉でレアチーズのムースだと聞いていただけの僕でさえ、味の違いには気づいたのに、実際にレアチーズのムースだった時に食べていたタマさんがヨーグルトのムースに変わっていたことに気付かないのは、少し不自然だ。
この書籍を読むまで、一縷の望みにかけていた。それはタマさんが、ただ単に味オンチという可能性だ。だが、それも感覚の鈍麻という症状を知ってしまった以上は、ほぼない可能性だろう。
タマさんは、心の病を患っていたのかもしれない。
そう考えた時、ほかのいくつかの点にも納得がいった。
猫舌で熱い飲み物が飲めなかったのに、本人も気づかぬうちに克服して熱いコーヒーを飲めるようになっていた。二月には、雪が残る中、寒そうな素振りを一切見せずにいたこともあった。
それらも感覚の鈍麻にあたるのではないだろうか。
書籍をそっと閉じて、書架に戻す。
大学の中庭には、大きな桜の樹が植えてあり、その周囲を囲むようにベンチが設置されている。普段なら学生の憩いの場の一つとして常に何十人という学生がそこにいる。二コマ目の講義の時間のせいか、夏の容赦ない日差しのせいか、今は数人しかいない。
木陰の下でなにをするでもなくベンチに座る。
僕がもう少し早くタマさんが、うつ病である可能性に気付いていたら、何か変わっていたのだろうか。ほんの少しの些細な異変や変化にその時気づいていたら、タマさんは今も『喫茶 夜の猫』に来ていたのだろうか。
後悔は際限なく湧いては心の奥底に溜まっていく。
「あ、タマだ」
ベンチに座っていた女子学生の二人組が声上げた。
僕はハッとして、声がした方を見て彼女たちが視線を向けている方に目を向けた。
そこには、虎模様の猫がいた。
タマと呼ばれた猫は、自身の名前を呼んだ女子学生を無視して、僕の方へとゆっくりと近づいてきた。僕の足元の匂いを嗅ぐと頭をこすりつけ始めた。僕の足の間で8の字を描くように歩く。
僕はタマを持ち上げて、膝の上に置いて訊く。
「お前、タマっていうのか」
タマは返事をするように、にゃんと鳴いた。
「そっか」
頭を撫でてあげるとタマは幸せそうに目を細めた。
タマさんの囁くような声が頭に響いた。どこか弱く消えてしまいそうだけど、芯のある透き通った声。
「私がこうしてタマを忘れないかぎり、タマは生き続けるんです」
「タマのこと忘れないでください」
忘れませんよ。
僕は心の中で、タマさんと最後に会った日に言えなかった言葉を呟く。
僕が忘れないかぎり、タマさんはきっとどこかで元気に過ごしているはずだから。
際限なく湧いて積み重なった後悔と一緒にタマさんのことを覚え続けよう。
いつかタマさんは言っていた猫になりたいと。その願望はきっと叶ったのだろうか。何者にも縛られず、自由でどこまでも行けるようになったのだろうか。
一枚の葉がひらりと僕の目の前をとおり過ぎていく。タマはその葉に反応して、僕の膝から飛び降りると、舞い落ちた葉っぱとすこしじゃれて僕の元を離れていく。
夏の日差しは容赦なく降り注ぐ。タマはそんな中を足並みは軽く、どこか楽しそうに歩いている。ベンチに座っている僕とはどんどんと距離が離れていって、やがて草陰にその姿を消した。姿を消す寸前、タマがこちらを振り返ったような気がした。霞んだ僕の視界には日の光が反射して、タマが光の球のようにしか見えなかった。




