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そして、彼女は猫になる  作者: 石橋 奈緒


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8/8

エピローグ

 四年後。


 僕は社会人になっていた。多分、出会った時のタマさんと同じくらいの社会人歴を積んだと思う。上司、先輩に叱られ慰めながら一歩ずつ進んでいく社会人生活は多忙を極めていた。毎朝決まった時間に起きて、ワイシャツにネクタイ、スーツを羽織りビジネスカバンを持って革靴を履く。モラトリアムに過ごせる代わりに何かしらの焦燥感のようなものに駆られた大学生活とは違い、同じ格好、同じ荷物を持った人の群れに紛れて過ごす、ある意味では安心感を抱くような生活を過ごしていた。


 社会人になって思い知ったのは、毎月決まった日時に予定を空けるという難しさだ。年数を重ねていけば可能なのかもしれないが、まだまだ新人の僕には日々の業務についていくので精一杯な現状では、とてもそんな余裕も体力も残らなかった。


 タマさんがどんな仕事をしていたかは知らないが、よほど上手く立ち回っていたのかもしれない。もしくは、無理にでも時間を作って『喫茶 夜の猫』に行かなければならない理由があったのではないかと思い知った。僕があの時、推測したタマさんがいなくなった理由は、いまだに推測のままであった。


 推定、タマさんと同じだけの社会人歴を積んで、当時のタマさんの気持ちを僕はなんとなく理解し始めていた。


 そんな折、偶然に偶然が重なり、僕は仕事終わりに『喫茶 夜の猫』に来ていた。


 お店を訪れたのは大学卒業以来、実に二年ぶりのことだった。二年前となにも変わらない佇まいに懐かしさと切なさが込み上げてきた。


 大学を卒業するまで、就活や卒論などで忙しい時期を除いては、足しげく通っていたけれど、その間一度もタマさんに会うことはなかった。


 扉の前の立て看板には、営業中の手書き文字が書かれている。二年前に比べて手書き文字が柔らかくなっているように見えた。二年の間で自分の見え方が変わったのか、マスターが親しみやすい文字に変えたのかと納得した。


 店に入店するとマスターが僕の姿を見て、一瞬ハッとした表情を浮かべ、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。


「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」


 マスターに言われた僕は、店内をぐるりと見渡した。店内には、二人のお客さんがいた。


 なにか資格本だろうか分厚い本を読む三十代くらいの男性と、僕と同じで仕事終わりなのだろうかスーツ姿で黒髪を後ろで束ねた二十代後半くらいの女性である。


 僕はいつもの席に座ろうと思っていたが、そこにはすでに女性のお客さんが座っていた。仕方がないので、女性から三席離れた席に座った。


 僕が席に着くとマスターがお冷とお手拭きを持ってきた。


「お久しぶりですね。スーツだったので、驚いてしまいました。立派なお姿です」


 マスターが言う。


 なるほど。マスターが一瞬驚いた表情を見せたのは、僕がスーツを着ていたからか。


 家族や友人からは、見慣れないためかスーツが似合わないなど言われたことはあったが、立派と言われたのは初めてだったので、少しくすぐったい気持ちになったのと同時になんだか背筋が伸びるような気持ちだった。


「お久しぶりです。立派なんてそんなまだまだです。日々の仕事を覚えることに手いっぱいな生活ですよ」


「そんなことはありません。日々の積み重ねが立派なのです。小さな積み重ねこそが人生ですから」


 マスターは柔らかく、それでいて芯のある声で続ける。


「そして、その日々に少し疲れたら、たくさん休むのです。そのために当店のような場所があるのですから。いつでも休みに来てください。珊瑚もいつでも待っていますから」


「……ありがとうございます」


「ご注文がお決まりのころに伺います」


 マスターはそう言うと、カウンターの方へ戻って行った。


 僕はお冷を飲んで、一人、息を漏らす。


 休むか。そういえば、社会人になってからは、日々の忙しさで休むことを忘れてしまっていたような気がする。意識的に休むという行為は存外、大切なのかもしれない。


 ふと思い返してみるとタマさんは、このお店で意識的に休むという行為をしていたのではないかと思った。毎月決まった日時に夜の喫茶店を訪れ、コーヒーを飲み、猫と戯れる。それは正しく、意識的に休む行為にあたる。


 でも、タマさんの疲れはそれだけでは、解消されることがなかった。社会人になった僕は、そのことを痛感している。僕は目線を少し左側に向けた。そこには、僕が日常使いしているビジネスカバンがあった。中には、会社の資料や業務に関わる資格の本などが入っており、見た目以上の目には見えない何かの重さが不随したその重さにいつも辟易している。いつかのその重さに耐えられなくなる日が、来るのではないかと思う日もあるほどだ。


 タマさんは、その重さに耐えられなくなってしまったのかもしれない。


 いつだったか。珊瑚がタマさんのビジネスカバンをひっくり返してしまったことがあった。その時、拾い集めて紙の重さは、僕にとっては紙一枚分の重さであってもタマさんにとっては、一枚一枚鉛のような重さだったのかもしれない。何枚にも積み重なった薄いのに鉛のように重い塊を抱えたとき、人が取れる行動は思っているよりも少ないのかもしれない。


 もし、僕とタマさんが出会った時、僕がタマさんと同じく社会人であったのなら、その重さを分かち合えたのだろうか。もしくは、お互いに大変ですねって、愚痴の一つでもこぼしながら、一緒に笑いあえたのだろうか。


 過ぎ去った過去は変えられないし、たらればを考えても仕様がない。でも、もしまたタマさんに出会えたら、僕は一つ彼女と約束を交わすだろう。また、ここで会いましょうと。お互いの背負っているものの重さを忘れて、コーヒーを飲んで、珊瑚と遊んで、休んでいきましょうと。


 僕が考えごとに耽っていると「にゃー」と足元で鳴き声がした。


 いつの間にか珊瑚が足元に来ていたようだ。僕と目が合うと珊瑚は、ひょいとソファに飛び乗った。珊瑚はもう一度「にゃー」と鳴く。久しぶりと言われているような気がした。


「久しぶりだね珊瑚。元気にしてたか」


 うりうりと珊瑚の頭を撫でて、顎を撫でる。目を細めて幸せそうな表情を浮かべる珊瑚。そんな珊瑚に僕は問いかける。


「珊瑚は、タマさんのこと覚えてるか?ここで君と触れ合うために何か月も努力をした不器用で、真面目で負けず嫌いな人のこと」


 珊瑚は、「にゃっ」と短く鳴いた。それが返事をしたように見えて、僕は嬉しくなった。


「僕も覚えてる。いつかまた会えるといいな」


 珊瑚がまた短く鳴いた。


 その時に、人が近くにいる気配に気がついた。はじめは注文を取りに来たマスターかと思った。でも、なにも言わないので、違うみたいだ。


 珊瑚から視線を外して、僕は近づいてきた人を見る。


 ダークブラウンのボブヘア、白シャツに紺色のエプロンを着た僕と同年代くらいの女性が立っていた。エプロンの胸元には、『喫茶 夜の猫』と刺繍が施されていた。女性は左手にトレイを持っており、その上にはマグカップとケーキが乗せられていた。


 見た目や立ち振る舞いから見て、彼女が『喫茶 夜の猫』の従業員であるとわかる。二年前までは、マスター一人で切り盛りしていたと聞いていたので、この二年の間に従業員を増やしたらしい。


 そんな彼女に会ったことはなかったはずなのに、彼女の姿に僕はどこか見覚えがあった。僕は不躾を承知で観察するような視線を彼女に向けた。


 僕の視線なんて気にもせず、彼女はトレイの上のものをテーブルに並べていく。もちろん僕は、まだ何も注文していない。以前にも似たようなことがあったような気がする。その時は、たしかオレンジのタルトケーキだった。


 今、僕の前に並べられたのは、ホットコーヒーとブルーベリーのタルトケーキだった。


「えっ」


 思わず声が出る。


 僕は女性従業員の顔をしっかりと見た。


 見覚えがあるのは当然だった。なぜなら、僕は彼女のことを四年間忘れたことはなかったからだ。でも、僕が記憶している彼女とは、髪色も髪型もなにより最後に会った時のどこか思いつめた表情とも、目の前に女性とはまるで違っていたからだ。


「私の大好きなブルーベリーのタルトケーキです。四年前と味は少し変わってしまいましたが、今の味も幸せの味がして、とっても美味しいですよ」


 彼女は目を細めて幸せそうな笑みを浮かべる。その表情は、僕の隣にいる珊瑚の表情によく似ていた。彼女は頭を下げ、去って行く。その足取りは軽く、跳ねるようだ。


 彼女に訊きたいことはたくさんあった。四年前になにがあったのか。今日までどう過ごしていたのか。どうして、ここで働いているのか。訊きたいことは際限なく湧いてくる。


 でも、今訊くのはやめておいた。


 僕のもとを去って行く彼女が、着ているエプロンのポケットから飛び出した『TAMA』と彫られた猫のチャームがご機嫌に揺れているのが見えたからだ。


 それにこれから時間は、いくらでもあるだろう。もう彼女はどこにも行かない。そんな気がしている。


 僕の考えていた《もしも》がこんなに早く叶うなんて、本当に彼女は猫みたいな人だ。いきなり現れ、僕の生活を変えたかと思えば、突然いなくなり、そして、またいきなり現れた。


 思わず笑みがこぼれた僕のことを珊瑚が不思議そうな目で見ている。頭を少し撫でてあげると、珊瑚はソファから飛び降りて、彼女のもとへ駆けて行った。


 僕はそんな一人と一匹を見送って、ブルーベリーのタルトケーキを一口食べた。ブルーベリーのタルトケーキは、四年前と変わらず、ヨーグルトのムースを使用していたが、四年前と違って、確かに幸せの味がした。

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