第6話 2月 雪が降って止まった街の夜で
二月になると街に雪が降った。一日中降り続いた雪は、十センチ程度積もった。数年に一度、雪が降るかどうかの地域にあるこの街では、十センチ程度の雪でも交通網を軽く麻痺させた。それが四日前のことである。道に積もっていた雪はほとんど溶けていたが、住宅の一部には雪かきで端に寄せられた雪が山のように積まれて残っていた。
先月タマさんと珊瑚が触れ合うことに成功し、僕とタマさんの約束は果たされた。だから、僕たちにはもう会う理由がない。なのに僕の足は自然と『喫茶 夜の猫』に向かっていた。
『喫茶 夜の猫』に着くと、僕はその場で足を止めた。いつもと雰囲気が違っていたからだ。
一つはお店の端に積まれた雪の山を前に座っている人がいた。カーキ色のモッズコートを着ている。背中を向けている上に、フードをしっかりと被っているため性別はわからない。カーキ色のかたまりにしか見えないその人物は、前後ろにと揺れていた。
二つ目は、『喫茶 夜の猫』が営業時間にも関わらず、明かりが灯ってないのだ。普段は扉の横に置いてある立て看板が、扉の前に立ちふさがるように置いてあった。立て看板には紙が貼ってあり、そこには臨時休業と書かれていた。休業理由は特に書いておらず、それがより緊急性を知らせているように感じた。
タマさんはまだ来ていないし、どうしようかな。
もしかしたら、タマさんも来るかもしれないから少しだけ待つことにしよう。十分くらい待って来なかったら帰ろう。
そう決めて、扉の前で立ち続けているわけにはいかないので、どこか待てそうなところを探そうと後ろ振り向いた。いつの間にかカーキ色のかたまりになっていた人が、目の前に立っていた。
「こんばんは」
目の前の人物は、聞きなれた声を発した。
「え……タマさん?」
「はい。タマさんです」
タマさんはフードを取ると微笑んだ。
白のセーターにカーキ色のモッズコートを羽織って、デニムパンツを履いていた。足元はシンプルなスニーカーで、首元には僕がプレゼントしたマフラーを巻いていた。スーツの時には、一つにまとめて後ろに結ってある髪をほどいて肩まで流していた。
タマさんの私服を見るのは初めてだった。いつもとは違う意味で、大人な雰囲気にドキッとした。
「えっと、こんばんはです。今日はお休みみたいですね」
「そうですね。なにかあったのか心配です」
「ですね。ところでタマさんも今日はお休みですか?」
「ええ。消化しなくてはいけない有休が溜まっていまして……。しばらくはお休みです」
タマさんは、視線を落としながら答えた。
大学生である僕には、社会のルールやそれこそタマさんの会社のルールは知らないので、必ず有休を使うルールがあるのか程度にしか思った。そういえば、バイト先の社員も年に一度まとめて休みを取ることがあった。その時にその社員は、いつも少しだけ申し訳なさそうな顔をしていたことを思い出した。
タマさんが視線を落とした理由も同じなのだろうと僕は解釈した。
「ゆっくり休めるといいですね」
僕は、件の社員にいつもかけている言葉をタマさんにも送った。
「……ありがとうございます」
タマさんはもう一度、視線を落とすと、すぐに目を上げた。
「そういえば、あれを見てください」
タマさんは、先ほどまで自分がカーキ色のかたまりになっていた場所を指さした。
指さした先には山のように積まれた雪があり、それに寄り添うよう小さな雪だるまがいた。雪だるまには耳がついていて、猫のような雪だるまになっていた。タマさんが前後に揺れていた理由が、なんとなくわかった気がした。
僕たちは雪だるまに近づいて、その場にしゃがみ込む。
「よく出来てますね」
「可愛くて、ついつい見惚れてました」
「誰が作ったんだろう」
「うーん。マスターじゃないですかね?もしくは近所の子供とか」
僕たちはしばらくの間、誰が作ったのかを予想しあった。結論の出ない会話をそこそこ楽しんだ。
ただ寒空の下、屋外で話し続けるのはさすがに辛くなってきた。どこかのお店に行こうかとも考えたが、僕たちの関係は『喫茶 夜の猫』の中でこそ育まれてきたものであって、別のところに持ち出すのは気が引けた。
横目でタマさんを見るとタマさんは寒さに強いのか平気そうだった。しかし、マフラーから、はみ出た耳の先が赤くなっていた。
さすがにと思って、僕はその場で立ち上がると、それに気づいたタマさんが訊いてくる。
「解散しますか?」
「そうですね。さすがに寒いので」
「……確かに寒いですね」
そう言うとタマさんは自分の両肩を抱いて震えた。さっきまでは、寒そうには見えなかったのに急にどうしたのだろう。
タマさんは立ち上がるとデニムについた雪を手で払い落とした。
「じゃあ帰りましょうか。私は駅の方ですけど、あなたはどっち方面ですか」
「えっと僕も駅方面なので、途中まで一緒に帰りませんか?」
「いいですよ」
僕の家は駅とは反対方向になるが、タマさんともう少し一緒に居たくて嘘をついた。体は芯まで冷え切っていて早く家に帰るべきなのかと思ったが、寒さは歩いていればなんとかなるとも思った。
僕とタマさんは、他愛の話(主に珊瑚の話を中心)をしながら隣り合って歩いた。僕は駅方面の道にあまり詳しくないので、タマさんの歩幅に合わせてついて行った。住宅街の道は時間も相まってか、人通りはほとんどなかった。時折吹く冷たい風に二人で肩をすくめたりした。
しばらく歩いていると一匹の猫が僕らの前を横切った。
「あ、猫ちゃん」
タマさんが小さく呟くと、その猫は一瞬だけ僕らの方を見ると逃げるように暗闇の向こうへと消えていった。
「行っちゃいましたね。かまったりしないんですか」
失礼かもしれないけど、タマさんは猫なら構わず飛びつくと思っていたので、あまり反応しなかったのが意外に思えた。
「かわいいとは思いますけど、野良猫にはできるだけかまわないようにしてるんです。あの子たちにはあの子たちの世界があって、安易に関わってしまってそれを壊したくないんです」
タマさんはどこか寂しそうに、先ほどの野良猫が去って行った暗闇を見つめる。
僕も同じく暗闇を見ながら、タマさんに訊く。
「タマさん?」
タマさんは何かを思い出すように目を瞑ると、一分ほどその場で立ち止まる。
先ほどの野良猫だろうか猫の鳴き声が閑静な住宅街に響いた。
タマさんは目を開くとゆっくりと歩き始めたので、僕も隣に並んで歩みを合わせる。僕が隣に来たタイミングでタマさんが話し始める。
「社会人になって直ぐのころに一匹の野良猫と知り合ったんです。当時、私は一人暮らしをしていて、その子は私が住んでいたアパートの周辺を縄張りにしていました。野良なのに人懐こかったその子に私は『タマ』って名前を付けました」
「タマは、ほとんど毎日のように私のところに来てくれました。家族と離れて心細かったあの頃の私は、毎日のように会いに来てくれるタマだけが心の支えだったんです。会社であった嫌なこととか良いこととかをタマにたくさん話してました。でも……」
楽しそうに話していたタマさんの表情が曇る。
「タマは突然、私のところに来なくなってしまったんです。毎日のように来ていたのに、なんの前ぶりもなく本当に突然に。私はすぐになにかあったのではないかと察しました。でも、私にはどうすることもできませんでした。だって、タマが普段はどこにいるかなんて知らなかったから」
タマさんは今にも消えてしまいそうな弱い声で続ける。
「いつも私の住んでいる部屋の前で会う。そこが私とタマとのつながりで、そこだけが私たちの世界だったから、そこから離れたタマの世界をなにも私は知らないんです。それから数か月が経って、タマがもう私のところに帰ってきてくれないと分かった私は、タマを忘れないためにこれを作ったんです」
タマさんはその場に立ち止まって、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、その先に付けられた猫のチャームを空中に揺らした。後ろから車が迫ってきたので、僕は少しタマさんの方に身を寄せて、チャームを見た。チャームに彫られた『TAMA』の文字に夜空の暗闇が透けて見えた。
「人は二度死ぬって聞いたことありますか?」
「はい」
人は二度死ぬ。一度目は肉体が死ぬ時。二度目は誰からも思い出されることもなく、忘れ去られた時。だから、肉体が死んでも誰かが故人を覚えていれば、その人は生き続けるという考え方。
「それは動物にも適応されると私は思うんです。だから、私がこうしてタマを忘れないかぎり、タマは生き続けるんです」
タマさんは、猫のチャームを優しく手に包み込むとギュッと強く握りしめる。それは、願いを込めるように、あるいは祈るように、あるいは縋るように。
なんて声を掛けていいのか分からない。でも、言葉は思考を置き去りにしてなぜか口に出ていた。
「あの、タマはどんな猫だったんですか?」
「え?」
タマさんは困惑した表情を浮かべる。
僕もなんでそんなことを訊いたのかわからないが、言葉は自然と出てきた。
「えっと例えば模様とか。性格とか。あとはどんなご飯が好きで、どこを撫でられるのが好きだったとか」
「どうして、そんなこと聞くんですか?」
「……僕はタマに会ったことがないですが、タマさんが教えてくれたら、タマさんが名付けて可愛がったタマがこの世界に居たってことを知ることができます。そうすれば、タマのことを覚えているのが、タマさんと僕で二人になるんです。だから、タマのこと僕にも教えてください」
僕とタマさんは、数秒その場で見つめ合った。
時折吹く冷たい風も、走り去る車のエンジン音もすべてが遠く遠くに感じた。ただ、タマさんがぽつりぽつりと小さく呟く声だけが僕に聞こえていた。
「……タマは虎模様で……性格は人懐っこくて、でもちょっぴり臆病で……かつお節が好きで……耳の付け根あたりを撫でられるのが好きで……」
タマさんは、タマのことをゆっくりとたくさん教えてくれた。
僕はその一つ一つを忘れないよう、記憶に刻み込むように相槌を打ちながら聞く。
遠くから猫の鳴き声と、近くから涙を堪えている声が聞こえた気がした。
「それじゃあ私はこっちなので」
駅前のなんの変哲もない交差点に二人で立つ。
タマさんは駅の方を指さして言った。
「僕はあっちなので」
僕は来た道でも駅の方面でもない方向を指さした。自分が指さした方面に、なにがあるのかを僕は知らない。ただ、駅前らしく喧騒が聞こえてきて、無事に帰れるのか少し不安になった。
「タマの話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「いえ、僕でよければ何度だって聞きますよ」
街灯に照らされたタマさんの目じりは、ほんのりと赤くなっていた。
交差点の信号が変わり、信号機からカッコウの電子音が流れる。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「はい、じゃあまた」
僕が片手を上げると、タマさんは僕に一歩近づく。
「タマのこと忘れないでください」
タマさんは僕が聞こえるギリギリの小さな声で言うと、散り際の花のように儚く笑って、振り返ると僕がなにか言う前に交差点を渡った。
タマさんが交差点を渡り切ると歩行者信号は点滅をはじめ、すぐに赤に変わった。
交差点を挟んで、僕とタマさんは向き合う。タマさんは、初めて会った時のように胸のあたりで小さく手を振った。
僕も手を振ろうとしたタイミングで、信号で止まっていた車が走り出した。僕たちの間をバスやトラックが過ぎ去っていく。絶え間ない車列の陰がタマさんは姿を隠した。信号が変わって車列の陰がなくなったころには、そこにタマさんはいなかった。
桜が満開の季節を迎え、冬の寒さを懐かしむようになった三月。『喫茶 夜の猫』で僕は膝の上に乗っている珊瑚の背中を撫でていた。時刻は、午後八時五分。季節的にもう飲み納めのつもりで注文したホットコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
「タマさん、遅いな」
僕は珊瑚に話しかける。珊瑚は返事をするようにウーンと低く鳴いた。
結局、この日タマさんは『喫茶 夜の猫』には来なかった。
そして、四月も五月も六月もタマさんは『喫茶 夜の猫』に訪れることはなかった。




