第4話 12月 ブルーベリーのタルトケーキ
「猫になりたい」
季節は移り変わり年の瀬が近づく十二月。タマさんは、ついにおかしなことを言い始めた。
「えーと。突然なに言ってるんですか」
僕は羽織っているダッフルコートを脱ぎ、首に巻いたマフラーをほどきながら、呆れを隠さずに言う。
今日は朝からみぞれ混じりの雨が降り、夕方には雪に変わった。雪はもう止んでいて、寒さだけを街に残していた。タマさんもコートを着てきたようで、鞄の上に畳んで置いてあった。
日々寒さが厳しくなる外の街に比べて、エアコンとストーブの効いた『喫茶 夜の猫』の店内は天国に思えるほど快適だった。
猫がいるからここまで暖房を効かせているのだろう。猫にとって、冬の寒さは命の危機に直結する。そんな人の気遣いなんて知りもしない猫である珊瑚は、ストーブの前で丸まって眠っていた。
僕たちは、その恩恵にあやかっていた。そんなタイミングでのタマさんの一言だった。
「だって、もう半年ですよ。なのに珊瑚ちゃんと一度もちゃんと触れ合っていないんですよ。もう、こうなったら、私が猫になるしかないじゃないですか」
確かにタマさんは、まだ一度もしっかりと珊瑚と触れ合えていない。しかし、あと少しというところまでは来ていた。
先月は、タマさんの手の甲に珊瑚が頭をこすりつけるところまではよかったのだが、辛抱できなくなったタマさんが、大きな声を上げたせいでそれ以上の発展はなかった。
珊瑚は徐々にしかし確実にタマさんに慣れていっている。
今日こそはと、僕は思っていた。しかし、今日の珊瑚はストーブの前から動く気がないらしく、僕たちが来ても眠り続けていた。
「まあ、気長に続けていきましょうよ。それでタマさんは猫になるなら、家猫と野良猫どっちがいいんですか?」
「そうですね。家猫の安全性と快適性を取るか、野良猫の自由さを取るか悩みますね。でも、珊瑚ちゃんみたいに誰かに拾われて家猫になるのが幸せかもしれないですね」
タマさんは、丸まる珊瑚を見ながら微笑んだ。
「若い時は野良で自由に生きて、老いたら家猫として安全と快適を取ると。欲張りですね」
「まぁ願望ですから。それぐらい自由に生きてみたいってことです」
タマさんは不自由なのだろうか。大学生である僕に社会人であるタマさんの不自由さはまだわからない。あと数年で僕もその不自由さを知ることになるだろう。そうしたら僕もタマさんと同じように、自由を求めて猫になりたいと思うのだろうか。
目の前のタマさんは、不自由さを感じているとは思えないような表情を浮かべている。その視線の先には、一定のリズムで上下する珊瑚の背中があった。僕らはその背を数秒見守った。
「そういえば、僕がお店に来た時マスターと何か話してましたけど、何かあったんですか」
別に示し合わせているわけではないが、いつも僕の方が早くお店に来ていることの方が多い。タマさんは、僕が来てからいつも大体十分くらい遅れてやってくる。タマさんには
秘密にしているけど、その十分を使って珊瑚と触れ合うのが僕のちょっとした楽しみであった。
しかし、今日はタマさんが先に来ており、いつもの席でマスターと何かを話していた。僕が来たことに気づくとマスターはカウンターに戻り、タマさんは何事もなかったように僕を迎え、「猫になりたい」なんて言い始めた。
「それは、もう少し待っていてください」
タマさんは、機嫌がよいのかずいぶんと愉快そうに言った。
そして、言われたとおり待っているとマスターがテーブルにやってきた。
まだ何も注文していないことを思いだして、コーヒーをと言おうとしたところで、マスターがテーブルにホットコーヒー二つとケーキ二つを並べた。
ケーキは、ブルーベリーのタルトケーキといつか食べたオレンジのタルトケーキだった。
「ごゆっくり」
マスターはそれだけ言って、去っていった。
「ちょっと早いけど、今年はもう会わないだろうから、いつもお世話になっているあなたへ。ハッピーメリークリスマス」
「……ありがとうございます。僕なにも用意してないんですけど」
「さっきも言いましたけど、いつもお世話になっているので、細やかなお礼です。気にしないでください」
タマさんがそう言うならと、ここは受け入れることにして、後日なにか返すことにしようと心に決める。
「どっちにしますか?」
ケーキの乗ったお皿を僕の前に突き出しながら、タマさんが問いかける。
オレンジのタルトケーキは以前食べた時と変わらず、一口大に切られたオレンジがたくさんのっていて、ひとつひとつ瑞々しさが伝わってくるように光を反射をしている。
ブルーベリーのタルトケーキには、一粒一粒が大きいブルーベリーがたくさんのっており、ケーキの上部をほとんど隙間なく覆って中央部は盛られて山のようになっている。ケーキは底からタルト、ブルーベリージャム、白いムースみたいな層、その上にブルーベリームースの順で構成されていて、こちらもオレンジのタルトケーキに負けず劣らず、魅力的だ。
オレンジのタルトケーキが美味しいのは確実として、ブルーベリーのタルトケーキも捨てがたいな。
僕が悩んでいると、ブルーベリーのタルトケーキを載せたお皿が少しだけ下がっていく。タマさんがちょっとずつブルーベリーのタルトケーキを自分の手元に寄せていた。
この人、大人げないな。
「じゃあ、こっちにしますね」
僕は、オレンジのタルトケーキを選んで、お皿を受け取った。
タマさんは、安堵の表情を浮かべていた。
なんだか子供っぽいタマさんの姿が、可笑しくて口元が緩む。タマさんに気付かれたくなくて、右手で口を覆う。
連絡先どころか名前も含め自身のことは何も教えてくれないタマさんだけど、ふとした瞬間に彼女は本当の自分を見せてくれる。タマさんのことが知れて、僕はなぜか嬉しくなる。
「オレンジの方が好みなんですね。よかったです」
「どっちも好きなんですけどね。……やっぱりブルーベリーの方がよかったかな」
「一度選んだらもう交換はできませんよ。しませんよね?」
「しないですよ」
僕は皿に添えられたフォークを使って、オレンジのタルトケーキを一口大の大きさに切って、口に運ぶ。
やっぱりおいしいな。
僕が食べるのを見て、もう取られる心配がなくなったことを確認してから、タマさんも同様にブルーベリーのタルトケーキを一口大に切って食べた。
そして、タマさんはフォークを口に含んだまま固まった。
「どうかしました?」
「ううん。久しぶりに食べたから、美味しすぎて感動しちゃいました。知ってますかここがレアチーズのムースになってるんですよ。それがブルーベリーの甘酸っぱさと合わさって、すごく幸せな味がするんですよ」
タマさんは、ほっぺたが落ちるという言葉を体現したような幸せそうな表情を浮かべる。
そうか、あの白いムースの部分は、レアチーズなのか。次に食べる機会があれば、必ず食べよう。
幸せそうな顔でタマさんは、湯気が昇るホットコーヒーに口をつけた。
そのままコーヒーを飲んだタマさんは、二口目のブルーベリーのタルトケーキを切り分けようとしていた。
見慣れない光景に僕は思わず、その違和感を口にした。
「あれ、猫舌は改善したんですか?」
「本当だ。普通に飲めてる」
タマさんは純粋に驚いていた。
先月までのタマさんは、ホットコーヒーに何度も息を吹きかけてやっと飲むか飲めないかほどの猫舌だった。改善なんて絶対にできないだろうなと僕は思っていた。
訓練をすると言っていたからその結果が、ここで出たのだろうか。
いや、きっと話しているうちにタマさんが飲めるくらいにコーヒーが冷めてしまったのだろう。
それを確認するために僕もホットコーヒーを一口飲んだ。
「熱っ」
ホットコーヒーは予想以上に熱くて、僕は舌を火傷してしまった。そのせいでオレンジのタルトケーキを、最後まで楽しむことができなかった。




