第3話 タマさんは猫舌である
残暑の厳しい九月。前日から朝方まで降っていた雨のせいで、朝からじめじめとしていた熱帯夜の水曜日。僕とタマさんは、『喫茶 夜の猫』の床に並んで正座をしていた。なぜ喫茶店の床に正座をしているのかというと、マスターを怒らせるほどの粗相をしたわけでは、もちろんない。タマさんと珊瑚が触れ合えるよう、できるだけ珊瑚に目線を合わせる。そのために必要なことだった。マスターには事前に許可をもらっているし、幸いなことにお客さんは僕たちだけだったから、変な目で見られる心配もなかった。むしろ、いつ来ても客入りの少ないこのお店の経営状況が僕は心配だった。
正座をしている僕たちの前に、珍しいものでも見るかのような目をしている珊瑚がいた。警戒心と好奇心を滲ませながら、床に座っている。
「タマさん。ゆっくりと手を珊瑚の前に持って行ってあげてください」
「はい。わかりました」
タマさんは、緊張した面持ちで珊瑚に向かってゆっくりと右手を伸ばした。その手はグッと握られている。緊張からなのか、それとも強く握りしめすぎているのか、握られた手は微かに震えていた。
目の前に突き出されたタマさんの手に興味を示した珊瑚は、恐る恐るといった様子で、その手に近づいていく。一歩踏み出しては止まって、また踏み出しては止まってと珊瑚は、時間を掛けながらタマさんに近づく。
その姿は、まるで子供が初めての友達を作ろうとしているようだった。僕は応援する親の気持ちでそれを見ていた。
珊瑚は、タマさんの手に鼻が触れそうになるほど近づくとスンスンと音を立てながら、その手の匂いを嗅ぎ始めた。吟味するようにいろんな角度から手の匂いを嗅いでいく珊瑚。先月までは、タマさんにまるで興味を抱いていなかったのに、いったい何が珊瑚の琴線に触れたのだろうか。猫の心のうちはよくわからない。
手の匂いを嗅がれているタマさんの表情が、次第に崩れていった。何かを我慢するように口をもごもごとしている。
僕は小声でタマさんに声を掛ける。
「珊瑚が満足するまで、もう少し我慢してください」
珊瑚に夢中で僕の声が届いていないのかタマさんは何も反応を示さない。彼女の目には、珊瑚しか映っていないみたいだ。
そして、なにかが限界に達したタマさんは、握られた手から人差し指だけを慎重に動かし始めた。珊瑚は、匂いを嗅ぐのに夢中で気づいていない。
僕はその様子を息を止めて見守っていた。もしタマさんが珊瑚に触れることができたら、僕とタマさんの交わした約束は達成されることになる。オレンジタルトケーキ分の働きは、充分にできたといっても差し支えないだろう。そして僕は、一つの面倒ごとから解放される。それはとても喜ばしいことのはずだ。
それなのに、なぜだか僕の心中は、あまり穏やかとは言えなかった。
タマさんの伸ばした指は、やはりというか珊瑚に触れることはなかった。触れるか触れないかの寸前のところで、気配を悟った珊瑚が身を引いたからだ。
珊瑚は、彼女の手に猫パンチを一発お見舞いすると身を翻して、カウンターの向こうに走り去ってしまった。その際に床に置いてあったタマさんの鞄にぶつかり、その中身を床にぶちまけた。倒れた鞄からは、分厚い参考書のようなものがはみ出し、床には紙が散らばった。
僕は、倒れた鞄を起こして散らばった紙を拾いながら、同じく紙を拾っているタマさんに声を掛ける。
「惜しかったですね。やっぱり元野良で警戒心が強いんから、些細な気配にも気づいちゃうんですかね」
「そうかもですね。でも、珊瑚ちゃんに猫パンチされちゃった。えへへ」
タマさんは嬉しそうに猫パンチされた手をさする。ケガをしていないか心配だったが、無用なようだ。
「嬉しそうですね」
「うん。だって、懐いてくれたらそうそう猫パンチなんてしてくれないかもしれないし、警戒されている今だけの特権だよ。貴重な体験だな」
タマさんは、テンションが上がっているのか早口で捲し立てる。普段は、敬語で話すのに口調も砕けたものになっている。
「ははは。そうですか」
僕は引きつった笑みを浮かべる。僕も猫は好きな方だが、ここまでの筋金入りではない。珊瑚も厄介な人に好かれたものだ。
「ねぇもしかして。……引いてますか?」
タマさんが、不安そうな表情を見せる。その表情が、先ほどの恐る恐るタマさんの手の匂いを嗅いでいた珊瑚の姿と重なった。それがおかしくて、僕は噴き出した。
「なんで笑うんですか」
「ふふふ、ごめんなさい。でも、その……ふふふ。おかしくて」
「なにがおかしいんですか」
そう言いながら、タマさんは僕の笑いにつられたようで笑い始めた。
二人でおかしく笑っているとカウンターの端から、奇妙なものでも見るような目でこちらを見ている珊瑚と目が合った。
ひとしきり笑った僕たちは、散らばった残りの紙も拾い集めた。
床に拾い残しがないことを確認して、僕はその場で立ち上がった。タマさんは最後の一枚を拾うところだった。
拾い集めた紙をまとめているとその紙がただの白い紙ではなく、何かが書かれている紙の裏面であることに僕は気が付いた。なので、タマさんに渡す際、彼女が中身を確認しやすいようにと僕は紙の表裏をひっくり返した。
紙の表面には、文字やグラフ、図形が書かれていた。僕はこの紙が仕事で使う書類なのではないかと思った。本当に仕事の書類なら、僕が見ていいものではない。頭ではそれをわかっていながら、僕は手に持った書類から目が離せなかった。
タマさんの書類には、赤ペンでたくさんの文字が書き込まれていた。
殴り書きされたような文字と丁寧に書かれた文字の二種類の文字が書かれていて、一人ではなく最低でも二人の人間が同じ紙に文字を書き込んだようだ。
何が書かれているか内容まではわからなかった。
殴り書きされた文字の一部は、勢いが余ったのか文字の端が掠れているものがあった。
僕は自分が通う大学のとある教授のことを思い出した。その教授は、レポートの添削をする際に理不尽な添削をすることがあった。僕も被害にあったことがある。その教授の添削箇所も赤ペンで力強く、まるで殴り書きのように書かれていた。
殴り書きの文字を読もうとしたところで
「拾ってくれて、ありがとうございます」
いつの間にか目の前に来ていたタマさんが、こちらに手を差し出していた。
紙を渡してってことだろう。拒む理由もないので、紙を手渡す。
「……いえ」
タマさんは僕の手から紙の束を受け取ると、僕の拾った分を自分で拾った分で隠すようにして二つの紙の束を重ねた。
テーブルで紙の束を軽く整えると、参考書のような本と一緒にタマさんはそれを鞄へとしまった。
タマさんは、鞄を床に置きなおすと椅子に座る。そして、立っている僕に、「座らないの?」と声を掛けた。
僕はただ頷いて椅子に座った。
アイスコーヒーを飲みながら、僕は拾った紙に書かれていた赤色の文字のことを考えていた。それが大学教授の半ば嫌がらせのようなものとは、意味が違うことくらいはわかっている。でも、頭ではそのことを理解できていても心がついていかなかった。
「どうかしました?」
タマさんは、何事もなかったかのように聞いてくる。
僕は一旦、先ほど見たものについては忘れることにした。今、話してしまうと余計なことまで言ってしまいそうな気がしたからだ。
それにタマさんは、そのことに触れてほしくなさそうだった。無理に触れようとしたら、彼女もさっきの珊瑚みたいに逃げていなくなってしまうような気がした。
「なんでもないです」
僕はできる限り、笑顔で答える。なにも見ていないですよと心に思いながら。
「そうですか」
タマさんは、いつもよりも落ち着いた声音で言うとマグカップに息をふーと吹きかけた。
マグカップから上っていた蒸気は、霧散して消えていった。
タマさんは今日もホットコーヒーを注文していた。
タマさんと会うのは今日で四度目。その四度で必ずホットコーヒーを注文している。
「あちち」
猫舌のタマさんは、小さく舌を出して笑った。
これも四度目。なぜ毎度懲りずに熱いうちに口をつけてしまうのだろうか。
そもそも冷ます前提なら、アイスコーヒーを注文すればよいのではないだろうか。
九月も終わろうとしている今日だが、僕たちの住む街に夏の終わりの気配はまだ近づいてきていない。
「タマさんは、どうしていつもホットコーヒーなんですか?」
なんだか露骨に話題を変えてしまったようになってしまったが、タマさんは気にしていない様子で、両手で包み込んでいるマグカップに目を落とす。
「うーん。ホットコーヒーの方が好きだからですかね」
「冬に暖房を効かせた部屋でアイスを食べるような感じですか?」
僕はタマさんとは対照的にアイスコーヒーを飲みながら聞く。暖房の効いた部屋でアイスを食べる贅沢さは、僕もよく知っている。
「言われてみれば、そうかも!暑い日にあえて熱いものを飲む。それも冷房がしっかりと効いた憩いの空間で。あー明日からも仕事が頑張れそうです」
タマさんは
タマさんは猫の話(特に珊瑚)のことについて、話すときはいつも熱を上げて話す。というかそれ以外の話を僕らはあまりしてきていない。だから、ほんの少しだけタマさんのことを知ったことが、純粋に嬉しかった。
「でも、ホットコーヒーが好きなのに猫舌だなんて大変ですね」
「そうなんですよ。いつもいつもみっともないところを見せてごめんなさい」
息を吹きかけていることを言っているのだろうか、それを特別気にしたことはなかった。
「いえ、気にしてないですから大丈夫です。……それにしても猫舌って改善できるんですかね」
僕はそう言いながら、スマートフォンで『猫舌 改善』と検索する。トップにあるサイトを開いて覗いてみる。
「舌の使い方とかで改善できるみたいですよ」
僕はサイトの記事が表示されているスマートフォンをタマさんに見せる。
タマさんは、それを見ながら内容を読み上げた。
「えーと。舌の先が熱に敏感だから、舌を後退させる訓練をすれば猫舌を改善できますと……」
記事の内容を読み終えたらしいタマさんは、椅子に深く座ると黙り込んだ。
「どうしました?」
僕が聞くとタマさんは左手を突き出して、手を開いて手のひらをこちらに向けた。
待って。という意味だろうか。
僕はタマさんが口を開くのを待つ。
突き出されたタマさんのすうっと伸びた白い指が綺麗だった。
タマさんは右手でマグカップを持つと、それを口に運んだ。
一口飲んで、マグカップを戻すと左手を下した。
「舌を後退させるって難しいですね」
早速、記事に書いてあったことに挑戦したようだが、どうやら失敗に終わったみたいだ。
「訓練って書いてありますし、一朝一夕じゃ身につかないと思いますよ」
僕は水の入ったコップをタマさんの前に差し出す。
「ありがとうございます」
タマさんは、それを受け取ると一口飲んでふぅと息を漏らした。
「家で練習でもしようかな……」
タマさんは真剣な声で呟く。
それを聞いた僕は、たかが猫舌だけでどうしてそこまで真剣になれるのだろうと思っていた。
別に猫舌だろうがなかろうが、そこまで人生を大きく左右することはない。それなのにどうして。
一つわかることがあるのであれば、僕とタマさんは決定的ななにかが違うようだ。
だから、僕はその違いを知りたいと思った。
僕の中に巣くう「このままでいいのか」という言葉が顔を覗かせた気がしたからだ。
「どうして、そこまで真剣に考えてるんですか?」
「え?」
タマさんは、明らかに困ったような顔を見せた。
思った以上に声音が真剣なものになっていたことに気づいて、軽い調子で聞き直すことにする。
「いえ、猫舌を改善することなんて、そこまで真剣に悩まなくていいことなんじゃないのかなと思いまして。気づいたら改善してましたってくらいでいいんじゃないですか」
タマさんの顔から困惑の色が消えて、徐々にいつもの様子に戻っていく。
「なんだ、そんなことですか。突然、真面目な顔をするんで、なにごとかびっくりしちゃいました。そんなに難しいことじゃないですよ」
タマさんは、そう言って僕の目をしっかりと見据える。
「あなたは猫舌ですか?」
「……いえ違いますけど」
「ということは、あなたは舌先ではなく舌を後退させた状態で飲食をすることができるってことです。私が時間をかけて訓練しないとできないことを、あなたは当たり前のようにできている。きっと猫舌ではない人のほとんどがそうなのでしょう」
僕は相槌代わりに軽く頷く。
「私は私以外の誰かが、当たり前にごく自然にできていることを、自分だけができないのってすっごく悔しんです」
タマさんは、力強く言った。
タマさんの表情は穏やかであったが、今抱えている何らかの悔しさを見つめるような目をしていた。
このときの僕は、タマさんの言う悔しさの意味を理解することができなかった。




