第2話 毎月第三水曜日午後七時半の約束
見知らぬ女性にアイスコーヒーとケーキを奢ってもらった二か月後の七月の第三水曜日の夜。僕は『喫茶 夜の猫』に来ていた。
二か月前と同じ窓際のテーブル席のソファ側に座って、僕はアイスコーヒーを飲もうとしていた。僕の隣では珊瑚が丸まって眠っている。
僕の目の前にいる珊瑚のことをとろけるような目で見ている二か月前に出会った女性は脱力した声でつぶやく。
「はぁかわいいな」
「あの……飲みづらいんですけど」
「気にしないでください。決してあなたのことを見ているわけじゃないので」
彼女の無茶苦茶な言い分を聞いて僕は一旦、アイスコーヒーを飲むのを諦めて、珊瑚の背中を撫でることにした。珊瑚は少し身じろぎするも起きる気配はなく、すやすやと寝息を立てている。微かな鼓動とそこに存在する確かな温かさが手のひらに伝わる。
彼女の方を見ると、表情筋を職場にでも置いてきたのか緩みきった顔をしていた。そんな顔をされていては、どうにも落ち着かない。僕が困惑の表情を浮かべていても彼女は、珊瑚に夢中で気づいていないみたいだ。
彼女に猫との接し方を教えると約束した日、僕は彼女の連絡先を教えてもらうことをすっかり忘れていた。というかお互いの素性について、なにも情報を交換していなかった。
奢ってもらったケーキとアイスコーヒーのお礼。そして約束を反故にしないためにも、僕はスマートフォンひとつでどんな場所、どんな時間でも連絡がとりあえる現代において、何度も「喫茶 夜の猫」に訪れて彼女がお店に来るのを待つというアナログな手法を用いることとなった。
おかげで、すっかり「喫茶 夜の猫」の常連になった。今では、僕が来店すると珊瑚は決まって、僕の隣に座るようになっていた。なんともサービス精神が旺盛な猫である。
彼女との約束を守るためとはいえ、僕の財布の中は少々寂しくなってしまった。コーヒー一杯だけでも、大学生には手痛い出費だ。そろそろ諦めようか(主に金銭的な理由で)と考えていた矢先、彼女と再び出会うことができた。
彼女は二か月前と同じく仕事終わりのようだったが、以前会った時と比べて服装が異なっていた。
夏になったからか彼女の服装は、クールビズを意識したスカートにワイシャツだけの涼しげなものになっていた。めくったワイシャツから見える腕は、日焼けがなく白い肌をしていて、僕は彼女がオフィス勤務のOLだとなんとなく思った。
今日彼女に会えたのは全くの偶然なので、今日はなんとしてでも彼女の連絡先を知らなければならない。また当てもなく通い続けるのは本当に避けたい。
ことの当事者である彼女は珊瑚に夢中で、今は話しかけても無駄そうだ。この人は、どこまで猫が好きなんだろう。そんなことを考える。僕には、はたしてそこまで夢中になれるものがあっただろうか。好きなものに一直線に見える彼女の姿が羨ましく思えてくる。
僕が考えごとをしていて撫でる手が止まったことに違和感を覚えたのか、珊瑚は起き上がった。その場で伸びをすると、するりと僕の手から抜けてどこかに行ってしまった。
「……行っちゃった」
彼女は深いため息をつくと、湯気が上るマグカップを大事そうに両手で包みこむようにして手に取った。マグカップを口元に近づけると何度かコーヒーに息を吹きかけた。上っていた湯気が彼女の息に合わせて揺れる。彼女はコーヒーを一口飲んで
「あちち」
と舌を小さく覗かせた。どうやら、彼女は猫舌のようだ。
僕はチャンスと思って、彼女に声をかける。
「あの連絡先を交換しませんか?いつお店に来るかわからないんじゃ珊瑚との接し方の教えようもないですし」
それに懐事情が限界なんです。と言おうと思ったが止めた。
彼女は、少し考える素振りを見せると僕の目をじっと見つめた。
「今日って何曜日ですか?」
「え?」
脈絡のない質問に僕の口から間抜けな声が漏れた。
そんなことは気にせず、彼女は小首を傾げて僕の答えを待つ姿勢を見せる。
「……水曜日ですけど」
「じゃあ今日と同じ毎月の第三水曜日に、時間も今日と同じ時間にこのお店に集合するっていうのはどうですか?」
店内に設置されている掛け時計を見ると、時刻は午後七時半を指していた。
「……いいですけど。もしどちらかがその日は急用とかで行くことが出来なくなってしまった時はどうするんですか?」
「そしたら、私はここでコーヒーを飲みながら、珊瑚ちゃんを眺めて一日の疲れを癒すことにします。私だって、このお店の常連になったんです。あなたが来ない日でも普通に利用しますよ」
僕との約束は、彼女が「喫茶 夜の猫」で過ごす時間のほんの一部に過ぎないと彼女は言外に伝えている。僕としてもその方が、ずっと気軽だ。もし、行けない日があっても罪悪感を抱かなくてすむ。
でも、彼女の言い方に少し引っかかるものを覚えたので、若干の意地悪を込めて答える。
「わかりました。僕はあなたが来ない日を珊瑚とたくさん触れ合う日にします」
「うっ。あなた結構ひどいこと言いますね」
彼女は恨みのこもったような目で僕を見つめる。
その視線から逃れるために、連絡先とは別に彼女のことについて困っていることについて彼女に話すことにする。
「連絡先のことは分かったので、あなたの名前を教えてもらえませんか」
「あれ言ってませんでしたっけ?」
「言ってないですね」
「でも、私だって教えてもらってないですからお互い様です」
そう言って彼女は、コーヒーを飲む。ホットコーヒーはある程度冷めたようで、彼女は安心したように息をついた。
彼女はコーヒーをソーサーに戻して続ける。
「でも、名前って必要ですか?こうしてお話できているならそれでいいんじゃないですか?」
確かに会話する相手が一人なら、名前を呼び合わなくて会話自体は成立する。そう思えば、名前は必要ないという彼女の意見にも一理あるような気がする。
それでも、呼び名が必要なタイミングはあるはずだ。まして僕と彼女は、まだ2回しか会っていない。そんな相手を「ねぇ」とか「おい」とかと呼ぶことはできない。
彼女が連絡先や名前などの素性を知られたくない理由はわからないが、ここはこちらから落としどころを提案すべきだと思った。
「あなたは会話が出来ていると思っていますけど、僕は話しづらいと思ってます。だから、折衷案を提案させてください」
「折衷案?」
「はい。本名がダメなら学生時代のあだ名とか教えてください。それなら、あなたは本名を教えなくて済むし、僕はあなたを呼ぶときに困らなくて済む。いい落としどころじゃないですか」
彼女は考えるように、または何かを思い出すかのように視線を中空に向けた。
遠くの方から救急車のサイレンが微かに聞こえた。七月に入ってからというもの真夏日が増えて、今年もまた観測史上一位の記録を塗り替える可能性があるらしい。それに伴って、熱中症が原因とみられる救急搬送が増加傾向にあると今朝のニュースで、言っていた。水分をしっかりと補給しましょう、冷房を積極的に使いましょうと注意喚起もなされていた。
そういえば、コーヒーには利尿作用があるから水分補給に適さないと聞いたことがある。
そのことを思い出して、僕はお冷を飲んだ。
「……あだ名ですか。いいですね。でも、私あだ名がなかったんですよ。というか学校がいじめに繋がるからって禁止にしてたんですよね」
近頃、小中学校であだ名が禁止になったと聞いたことはあったが、まさか僕たちの世代にもあったなんて知らなかった。彼女はお堅い学校にでも通っていたのかもしれない。
あだ名がないとなると折衷案は失敗だったかな。
僕が次の案を考えようとふと彼女を見たとき、彼女はなぜか嬉しそうな顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いえ、あだ名って憧れだったんですよね」
彼女は小さく笑うと期待を込めた眼差しで僕を見つめた。
どうやら彼女の中では、折衷案が進行中らしい。
そして、彼女の眼差しの意味を僕は理解した。
「もしかして、僕にあだ名をつけてほしいってことですか」
「はい!ぜひ」
「いやいや、いきなりそんなこと言われても思いつかないですって」
「全然なんでもいいですよ。まぁ番号で呼ばれたり、蔑称で呼ばれたりするのはさすがに嫌ですけど。それ以外なら本当になんでもいいです」
「人をなんだと思っているんですか。そんなことしないですよ」
僕の呆れた声は届いていないのか、彼女は楽しそうに、あだ名をつけられるのなんて初めてなんですよなどと呟いている。
野良猫に勝手に名前つけるよう行為だなと思った。他の場所では別の名前で呼ばれて、ここではここだけの名前が存在する。どれかが本物でどれかが偽物。もしくは……。
僕が悩んでいると、無機質な機械音が彼女の方から鳴った。彼女は鞄から急いでスマホ取り出すと僕の方をちらりと見た。
「見ても大丈夫ですよ」
僕はまだあなたのあだ名を考えるのに忙しいので、という頭の部分は心に閉まって僕は言う。
彼女は軽く頷くと、スマホを目線の高さまで持ってきて画面をじっと見つめた。どうやら、電話ではなくメッセージやメールのような類のものだったらしい。初めこそ、真剣な表情でスマホを見ていた彼女だったが、ゆっくりとその表情は和らいでいった。彼女は、両手でスマホを持ち、文章を入力しているのか指を忙しなく動かしている。彼女の指が動くたびに連動してスマホも上下に動いた。僕と彼女の間で、スマホについているキーホルダーが揺れた。僕は、キーホルダーについている猫のシルエットになっているチャームをじっと見つめていた。
「友達からの連絡でした」
彼女はスマートフォンをテーブルに置いた。コーヒーを飲むと彼女は、重く息を吐いた。
友達からの連絡にしては、彼女の反応は少し変に思えた。彼女の息の吐き方は、まるで緊張を身体の外に吐き出すかのようだったからだ。
僕がその理由を考える前に彼女の問いかけによって、考えごとは中断された。
「それで決まりましたか?」
マグカップを大事そうに両手で包み込んだ彼女は小首を傾げて尋ねる。彼女の耳に掛っていた髪が一房、肩に落ちる。
「タマさんなんてどうですか」
「……」
僕の提案に彼女は黙り込んでしまう。適当過ぎたかな。沈黙の中で、そんなことを考えた。沈黙はそれだけで、こちらがなんだか責められているような申し訳ない気持ちになってくる。
でも、僕がそこまで義理立てて真面目に考える必要はないんじゃないかと思い直す。それでも、かなり安直だなとは思っていた。彼女は猫が好きだし、本人は猫舌で猫っぽい。それに
「安直ですね」
僕の心を読んだように彼女は言った。マグカップをソーサーに置くと、彼女は自身のスマホを持って、キーホルダーを目線の高さまで持ってきた。僕と彼女の間で、キーホルダーが揺れる。彼女は、キーホルダーについている猫のチャームを指さした。そのチャームは『TAMA』と彫れていた。
「ダメでした?」
「いいえ。その逆です。すごく気に入りました」
「よかったです」
「お互いの名前も連絡先も知らない男女が、毎月決まった日に喫茶店で会うのって、なんだか映画やドラマみたいですね」
タマさんは、愉快そうに笑った。ひとしきり笑うと、猫のチャームを一度じっと見つめてスマートフォンを鞄にしまった。
「ドラマもなにも全部仕組んでることですけどね」
「そう言うことを言うのは無粋ですよ」
タマさんは、茶化すように笑った。
この日以降、僕は毎月の第三水曜日の夜だけに会う素性もなにも知らない彼女のことを「タマさん」と呼ぶようになった。
いつなくなってもおかしくない友達でも知り合いとも言えないような心許ない関係性。そんな関係性をなんだか心地よいと僕は感じていた。
ちなみにタマさんは僕のことを引き続きあなたと呼ぶことに決めているらしい。
曰く「私は名前を知らなくても困らないから」だそうだ。




