彼女との出会いは喫茶店だった
七月の第三週の水曜日。時刻は午後七時三十分。僕は、行きつけの喫茶店『喫茶 夜の猫』に来ていた。この喫茶店は、平日の夜だけ営業をしている変わったお店で、整えられた白髪と白髭がいぶし銀な老齢のマスターが半分道楽で営業しているようなお店だ。利益追求のために営業していないので、いつ来てもお客さんは少なく、落ち着いた雰囲気があった。
僕が入店するとマスターはカウンター越しに軽く頭を下げた。僕も会釈を返して、定位置になっている窓際の席に座った。
僕が椅子に座ったタイミングを見計らってマスターがやってきた。僕の前におしぼりとお冷を置いて、温かみのある優しく低い声で「ご注文は?」とマスターが尋ねてきた。
僕は少し迷って、いつか食べようと決めていたものを注文することにした。
「ブルーベリーのタルトケーキとアイスコーヒーをください」
「かしこまりました」
そう言って、マスターはカウンターの向こうへと戻って行った。
そして、マスターと入れ替わるように、『喫茶 夜の猫』の看板猫である珊瑚が僕の足元にすり寄ってきた。軽く頭を撫でてあげると膝の上に飛び乗ってきた。顎の下を撫でると気持ちよさそうに目を細めながら、ゴロゴロと鳴き始める。
僕は珊瑚を撫でながら、ここでよく会っていた彼女のことを思い出していた。ブルーベリーのタルトケーキは、彼女が食べていたもので、僕が知っている数少ない彼女の情報の一つだ。
彼女の本当の名前も連絡先も彼女のことについて、僕はほとんど知らない。
僕が彼女のことを今以上に知ることはできない。
だって、彼女はもういなくなってしまったから。
でも、確かに彼女は、ここにいた。僕の目の前にいた。
名前の知らない彼女のことを、僕はタマさんと呼んでいた。
「お待たせしました」
マスターがケーキとコーヒーをテーブルに置いた。
宝石のようなブルーベリーが乗せられたタルトケーキにフォークを差し込む。一口大に切り分ける。タマさんのことを思い出しながらケーキを口に運ぶ。ブルーベリーの甘酸っぱさが口いっぱいに広がっていく。そこに僅かな違和感を伴って。
タマさんと初めて出会ったのは、五月の下旬。夜風が心地よい日のことだった。
その日は、大学の講義が午後からあり、僕は欠伸を噛み殺しながら講義を受けていた。
「……には、感覚の鈍麻などが挙げられます。感覚の鈍麻とは、文字通りに感覚が鈍くなることのほかに感覚の消失などを指します。具体例としては……」
教授の講義を右から左へと聞き流しながら、ボールペンでノートの端を叩いて講義を聞いているふりをする。この講義の教授は、学生のことをしっかりと見ながら、講義をするのでさぼっている学生をすぐに見つけ注意してくる。初回の講義で、ほかの学生が注意されているのを見てから気を付けるようにしている。
普段は、それなりに講義をしっかりと聞いているのだが、今日に限って集中を欠いていた。
特別、集中を欠く理由はないので、治り切らない五月病ということにして自分を甘やかしていた。
「今日の内容について、レポートをまとめて次の講義までに提出するように。もし、提出が間に合わなさそうな場合は早めに連絡しなさい」
教授の言葉に、小さいながら抗議の言葉が聞こえた。しかし教授は、その言葉に一切耳を貸さず、教室から出ていった。
うーん。レポートか。早速、今日から取り掛かった方がよさそうだな。
講義をしっかりと聞いていなかったことが、悔やまれる。まぁ悔やんでも仕方ないし、なんとかはなるだろうと思って、僕は教室を後にした。
講義のレポートを自宅でやっていた僕は、少し行き詰ったので気分転換に外で作業することにした。トートバッグにノートパソコンと教科書、メモ帳、ペンケースを入れて近所のファミレスに行くことにした。僕の家からファミレスまでは、歩いて十分程度かかる。気分転換にもなるだろうと、高校生の時から愛用しているロードバイクではなく、歩いて向かう。目的地のファミレスは、県道沿いにあり、赤くて丸い看板が目印だ。夜になるとその看板がライトに照らされ、赤い満月のように見えて遠くからでもよく目立つ。はずなのに、今日はその赤い満月が見えてこない。嫌な予感がしたが、とりあえず見えなくなってしまった赤い満月の下を目指して歩く。
嫌な予感とは存外当たるらしい。僕は一人、ため息をこぼした。
いつもなら明るく賑やかに迎えてくれるガラス戸の向こう側が、今日は暗く静かだった。ファミレスの店内には、飲食店らしからぬ機械やら工具が床に散乱していた。
僕は覗くのをやめて、ガラス戸に貼られている張り紙を見た。
《店内改装工事につき、五月十日から五月三十日まで休業……(あとはありきたりな定型文が書いてあった)》
もう一度、ため息をこぼす。ため息をついたところで、お店に明かりが灯ることはない。立ち尽くしていても仕方がないので、スマホを取り出して周囲のお店を調べてみる。歩いて行ける範囲で営業しているのは、ラーメン屋と回転寿司だけ。到底パソコンを広げて作業するのには適していない。もっと離れたところにファミレスやハンバーガーチェーンなどはあるのだが、自転車で二十分、徒歩だと一時間近くかかる距離にある。自転車に乗ってこなかったことを悔やむ。
真っ暗なファミレスの前に突っ立っているのがいけないのだろう。歩道を歩く人や信号で停車している車の運転手から奇異の目線で見られる。このまま通報なんてされたら敵わないので、ひとまずは家路につくことにした。
来た道を戻ろうとしばらく歩いていたところで、せっかくレポートの息抜きで外に出たのに、ただ帰るだけではなんだか勿体無いような気持ちが込み上げてきた。本当はすぐにでもレポートを進めなければならないのだが、込み上げてくる気持ちは中々消え去ってくれない。気持ちとは裏腹にひたすら自宅を目指していた僕の足は、その場で動きを止めた。別に悩んで足を止めたわけではない。ただ、進行方向の信号が赤になっただけ。でも、それが僕の気持ちを後押しした。僕は一瞬の迷いもなく、家路とは関係のない方向の信号を渡った。
自宅からファミレスまでは、いつも寄り道などせず真っ直ぐ行き来していたので、脇道にそれて通る道は新鮮だった。夜風が頬を気持ちよく撫でいく。あてもなく歩く。ただ、なんとなくの進行方向は自宅のある方向にしておく。あまり遠くまで行ってしまうと帰るのが面倒になってしまうからだ。
こうして、あてもなく散歩するのはすごく久しぶりなことに思えた。意識しないと自宅、大学、アルバイトをしている本屋。この三か所を往復し続けるだけの生活をしてしまう。新しいことや刺激的なこととは無縁で、ルーティンと化した簡素な日常。僕はそんな日常を気に入ってはいる。そう気に入ってはいるのだ。
ただ、例えば自宅で好きなアーティストのアルバムを聞いている時の曲と曲の間にある空白の数秒や、大学で講義が終わった際に響き渡るチャイムが鳴りやんだ静寂と喧騒の間や、アルバイトをしている本屋で忙しくて目が回るような日の休憩終わりにタイムカードを切る瞬間。そんな一瞬の隙間を縫うようにして、僕の心に「このままでいいのか」という言葉が浮かぶ。それはしばらくそこに留まると、やがて消えてしまう。だが、本当に消えたわけではなくて、心の奥底に移り、見えない部分に堆積していっている。それが心の表層に出てくることを僕は恐れていた。
人生のモラトリアムに興じているだけの大学生である僕が、心の奥底に溜まった「このままでいいのか」という言葉と向き合った時、僕はなんて言葉を返せるのだろうか。きっとなにも返せない気がする。そうなってしまったら、僕は何者なのだろう。僕は、自分が何者なのかを知るのが怖いのだ。
気づくと知らない住宅街に来ていた。閑静な住宅街という言葉がぴったりと当てはまるように静寂に包まれている。一定の間隔で規則正しく並ぶ街灯、家からほんの少し漏れる光がまるで夜空を彩る星々のように見えた。その星の中に一等輝く明かりが見えた。金星のようなその明かりに吸い込まれるようにして僕は、その明かりのもとへ向かうことにした。
金星の正体は、喫茶店だった。住宅街の路地の一角に佇むその建物は、大きな三角屋根に闇夜を思わせるような黒の木目と、それとは正反対に真っ白な塗り壁が特徴的なモダンな外観をしていた。これまた黒の木目が目を引く扉の前には、立て看板が置かれていた。看板は、黒板のような材質のものなのだろう。チョークのようなものを使って、『喫茶 夜の猫 営業中』と手書き文字で書いてある。
こんな住宅街に喫茶店があるなんて知らなかった。地図アプリにも表示はされていなかったはずだ。営業時間は書いていないが、まさか二十四時間営業ではないだろうが、折角なので、入店することにした。やはりレポート課題は進めておかねばなるまい。ドアノブに手を掛ける。
扉を開けるとカランカランと小気味のいい鐘の音が鳴った。店内は天井まで吹き抜けになっており、梁には各テーブルを照らすライトがついていた。客席は六組ほどのテーブル席とカウンター席が五席あり、テーブル席に女性のお客さんが一人だけ座っていた。僕が店内を見回しているとカウンターの向こうから老齢のマスターが顔を覗かせた。
「いらっしゃいませ」
快活な挨拶ではなく、落ち着いた低い声でマスターが告げた。
その渋い雰囲気に緊張しながら、僕はマスターに声を掛ける。
「一人ですけど、大丈夫ですか?」
「もちろんです。お好きなお席にどうぞ」
マスターは目じりにしわを寄せて優しく微笑んだ。
窓際にはテーブル席が四組並んでおり、テーブルと椅子が一つずつと壁の端から端まである一つのソファで構成されている二人用のテーブル席になっていた。端の席にスーツを着た女性が座っており、僕は彼女とは反対側の端の席を選んだ。
僕がソファ席に座ろうとしたとき、足にやわらかい何かが触れた。僕は思わず「うわっ」と声を上げる。僕の声を受けてスーツの女性が不信な目をこちらに向けてきた。その視線から逃れるようにテーブルの下をのぞき込むと、そこには茶色い毛のかたまりがあった。そのかたまりは、もぞもぞ動くと「にゃー」と鳴いた。茶トラの猫だった。そして、茶トラ猫は自身の匂いを擦り付けるように頭を何度も僕の足にぶつけ始めた。
「おや、珍しいですね。珊瑚がお客様になつくなんて」
いつの間にか僕のそばに来ていたマスターはそう言いながら、テーブルにおしぼりとお冷を置いた。
「珊瑚?」
僕がマスターに尋ねると、自分が呼ばれたのかと思ったのか茶トラ猫が、また「にゃー」と鳴くとソファに飛び乗り、僕の隣にちょこんと座った。
「その子の名前です。うちの看板猫は三代目でして、初代がいちご、二代目が二胡。そして三代目の珊瑚です」
「そうなんですね」
「珊瑚は、もと野良猫でしてね。あまりお客様には懐かないんですよ。顎を撫でられるのが、好きなので撫でてあげてください」
マスターにそう言われて、僕は珊瑚の顎を撫でてあげる。マスターのお世話がいいのか珊瑚の毛は柔らかく、ふわふわとしていた。しばらく撫でていると珊瑚は、目を細めてごろごろと喉を鳴らし始めた。数秒そうしていると珊瑚は満足したみたいで、その場で大きくあくびをするとカウンターの方へと行ってしまった。
「気まぐれで申し訳ありません」
「いえ、猫と触れ合うのはすごく久しぶりだったので、嬉しかったです」
「そうですか。それは、お客様に喜んでもらえて珊瑚もきっと喜んでいます。ご注文をまだ伺っておりませんでしたね。いかがなさいますか」
「アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
マスターは慇懃に頭を下げるとカウンターの方へと向かっていった。
昔から動物には好かれる質だったが、実際に触れ合える機会というのは滅多に訪れない。猫を飼った経験はないので、本当に数年ぶり出来事だった。数年ぶりに動物と触れ合ったことでなんだか気持ちが軽くなったような気がした。
これがアニマルセラピーの効果なのかな。珊瑚の柔らかい毛の感触を思い出しながらそんなこと考える。
おしぼりで手を拭いていると視線を感じた。そちらに目をやると対角線上に座るスーツを着た女性客が僕の方を見ていた。目が合っても彼女は視線を外さない。なぜ見られているのかわからないが、何となく会釈をしてみた。彼女は、それに応じる素振りは一切見せず僕をただ見ている。実際に見つめ合っていた時間は、三秒にも満たないものだったに違いない。でも、体感では数十秒に感じていた。それほどに気まずい時間が流れていた。その気まずさを破るように、彼女は立ち上がると、僕の座っているテーブルまでやってきた。
「あの、あなたはこのお店の常連さんなんですか?」
僕の目の前に立った彼女は、いきなりそう尋ねてくる。うちにある好奇心を隠すつもりのない跳ねた声をしていた。
突然のことに驚きつつも、怪しさ満点の彼女を僕はじっと見る。
女性は、黒いパンツスーツに身を包んで、肩までありそうな髪を後ろに軽く結んでいる。サークルの先輩が、春から夏にかけて、目の前の女性と似たような恰好をしていたことを思い出した。ということは目の前に立つ彼女は、現在、就活中か、もしくは新卒の社会人だと思った。どちらにせよ僕よりは、年上かな。いや、高校生なら年下の可能性もあるのか。違う。今は年齢のことなんてどうでもいい。重要なのは、次に彼女がなにを発するかだ。これで「あなたは神を信じますか?」なんて言われたら、僕は二度とこのお店に足を運ぶことをしないだろう。
僕が怪訝な目に気づいたのか彼女は慌てた様子で勢いよく頭を下げる。彼女の後ろで束ねられた髪が揺れる。
「いきなりでごめんなさい。急に話しかけられた困りますよね。私このお店に何度も来ているんですけど、まだ一度も珊瑚ちゃんと触れ合ったことがないんです」
彼女は何度もの部分を強調しながら言う。
「どうすれば触れ合えるのかとやきもきしていたところ、あなたが珊瑚ちゃんと触れ合っているのを見て、あなたと同じくらいお店に通えば珊瑚ちゃんと触れ合うことができるんじゃないかと思って声を掛けました」
彼女は僕の反応を窺うように目をのぞき込んでくる。
適当なことを言おうか悩んだ。その方が、このお店のためになるだろうと思ったからだ。ただ、彼女のどこか不安げで自信のなさそうな瞳に嘘をつくことができなかった。
「い、いえ今日が初めてです」
「え!」
彼女の短くも大きな声は、コーヒーをドリップしている音しかしていない店内には、うるさいくらいに響いた。カウンターの向こうでなにかが落ちる音と同時に動物が駆けていく音が聞こえた。彼女が珊瑚と触れ合うことができない理由の一つを垣間見た気がして、思わず笑ってしまいそうになる。
「大きな声を出して、ごめんなさい。てっきり何年も通っている常連さんだと思っていたので、驚いてしまって」
「僕は気にしていないので、大丈夫です」
謝る相手が別にいるのは、とりあえず黙っておく。謝るべき相手は、今日はもう出てきてくれなそうだから。
「僕は?」
彼女は僕の言葉に引っかかりを覚えつつも特に言及することはせず、流れるように僕の目の前の椅子に座った。
さらっと相席になってしまったが、この状態をうまくかわす術も言葉も僕は持ち合わせていなかったので、なにも言わなかった。
彼女は少し居住まいを正すと
「それで、ごめんなさいついでになんですけど……。私に珊瑚ちゃんと触れ合う術を教えていただけないでしょうか」
彼女は、上目遣いで僕に尋ねてきた。
僕は悩んだ。正直面倒だし、僕は絶対に猫を手なずける技みたいなものなんてない。ただ、他の人よりもほん少しだけ動物に好かれやすいってだけで、すべての動物を手なずけられるわけではない。どうしたって相性というものはある。そこは人間関係と大して変わらない。たまたま珊瑚と僕の相性が良かっただけのことだ。もしかしたら、次来た時には忘れられているかもしれない。猫は人間よりもずっと気まぐれで自由な生き物だ。
断ろうと思った。不確定なことを教えることほど難しいものはない。彼女が珊瑚と触れ合えるようになるのは、この数分の会話だけでも遠く険しい道のりであることは伺い知れた。それに付き合う時間なんて、僕には無い。断ってしまうとこのお店に来るのに少々気おくれしてしまうかもしれないが、僕は大学生で彼女は見たところ社会人だ。平日の昼間に来れば、会うこともないだろう。
そう考えていたのに、
「わかりました。僕に教えられることがあるかは分かりませんが……」
僕の口から出た言葉は、頭で考えていたことは全く違っていた。まるで、別の誰かが僕の口を使って言葉を発しているかのようだった。
「本当ですか!」
彼女は身を乗り出して、喜んだ。顔がぐっと近づいて、思わず目を逸らしてしまう。そのせいで、本当は言うべきだったはずのことを言うタイミングを逃してしまった。
「嬉しいな。楽しみだな」
彼女は、今すぐに小躍りでもしそうなほどに浮かれている。実際ふんふんと鼻唄をうたいながら、体が揺れている。
ますます訂正するタイミングが無くなっていく。僕が「やっぱり」と言いかけた時、対角線上にある彼女が本来座っていたテーブルから電子音が響いた。
彼女はその音に反応するとさっきまでの浮かれ具合が嘘のように表情を硬くして、元の席に戻って行った。椅子に置いてある自身の鞄の中から、スマホを取り出して電子音を止めると鞄にしまった。スマホをしまった手で財布を鞄から抜き取ると、鞄を肩に椅子の背もたれに掛けていたジャケットを腕に掛け、こちらに戻ってきた。
「私そろそろ帰らないといけないので、これで失礼しますね」
彼女は、無理やり作ったような笑顔を向けて
「では、また」
と言って、右手をちょこんと胸のあたりまで挙げた。
流れが早く困惑している状況に僕は
「……はい」
とだけ返した。
彼女は、店の出入口の近くにあるレジまで行って、マスターと一言二言、言葉を交わすと会計を済まして、急ぎ足で店を後にした。
まるで嵐のようだった。頭の中を混乱が支配している。
気づくとマスターがテーブルの横まで来ていた。
「こちらアイスコーヒーになります」
渋い声でマスターが告げ、僕の前にアイスコーヒーが置かれる。それと一緒に注文していないはずのケーキが置かれた。
「あの、これ注文してないですけど……」
僕はテーブルに置かれたケーキを指さす。
「こちらは、先ほどのお客様からです。アイスコーヒーを含めたお会計も一緒に頂いております。では、ごゆっくり」
そう告げると、マスターはカウンターに戻って行った。
目の前に置かれたケーキは、厚めのタルト生地に生クリームとムースで作られた二重層のフィリングと、その上に一口大に切られたオレンジがたくさん載せられたタルトケーキだった。ケーキに載っているオレンジが、店内の照明を反射してキラキラと光っている。瑞々しく新鮮なフルーツであることがよくわかる。
僕は食べてよいものなのか少し迷った。彼女がコーヒーとケーキを僕に奢った理由は、考えるまでもない。少々ずるいやり方だなと思った。彼女はもう店を後にしているので、目の前に置かれたコーヒーとケーキを断ろうにもその相手がいない。
しばらく手に持ったフォークで中空を切って、ええいままよと僕はタルトケーキにフォークを差し込んだ。
一口大にケーキ切って口に運ぶ。甘さ控えめでほんのりとバターが香るタルトの味と、オレンジのさわやかな甘酸っぱさ、そして優しくてほのかな苦みが口に広がる。タルトケーキの味は、控えめに言っても僕が今まで食べたケーキの中でも一番おいしいといえる味だ。
アイスコーヒー飲んで、一度口の中をリセットする。コーヒーは酸味よりも苦みが強いもので、僕の好みに合うコーヒーだった。
もう一度ケーキを口に運んで考える。これで、彼女との約束は果たさなくてはいけなくなってしまった。せめて、このオレンジタルトケーキのおいしさに見合う働きはしないといけない。
ケーキの味を楽しみながら、僕はあることを思い出す。
「あ、連絡先聞いてない」
僕の小さな独り言は、遠くから聞こえた珊瑚の鳴き声によってかき消された。




