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4 (完)

 創平が手にする硝子の蒔絵から湧き上がるはなだ色の光。今にもこぼれ落ちてきそうなほどの勢いで燃える青が、ちりちりと瞳の奥底を刺激する。そこに『美しさ』という言葉は見出せない。薄い氷のような危うさと鋭さを孕んだ、冷たい炎だ。それを、創平は『鬼火』と呼んでいた。

 本来鬼火とは、湿地に小雨の降る闇夜などに、空中に燃え出る青火のことを指す。陰火だとか幽霊火だとか狐火だとか火の玉だとか、様々な呼称はあるけれど、この色の特徴から言って一番近いと思われるのが「これ」だった。まあ、そういう観点から言えばこの表現は正しくないのだけれど。

 そもそも、少し念じるだけで己の手の中で火が灯るというのは完全なる超常現象である。いくら円が『不幸』を体内に吸収するためにわざわざ己に与えた能力とは言え、人間離れしてゆく自分を創平はひどく残念に思う。

 もっと、全うに生きるんだった。もう後悔しても遅いが。

「やはり、お前の手の中はよく燃える」

 円が炎を覗き込みながら不敵に笑うと、創平は困ったように眉を下げながら微笑んだ。

「褒められたことじゃない」

 そして、彼もまた手の中で燃える青の炎に目を向ける。「おれの手の中で言霊が燃えるのは、その言霊はお前が言うところの『不幸』を背負っているからだ。そんな悲しいことがあるか」

「『不幸』の匂いを纏った人間が触媒に……、ね。『彼岸堂』はやたらそういう人間が集まるから」

 それじゃあ、と円が胸元で印を結んだ。赤褐色の瞳が青の炎を捉えると、ふわりと炎が箱から離れ、宙に浮かび上がる。火の粉を巻き上げながら移動してゆく様はあたかも彗星のようだ。

 そのとき、かたん、と外から物音がした。

 創平が身を翻すと、一度閉めたはずの戸が僅かに開いており、その向こうで幸乃が目を丸くしていた。ぎょっと目を剥き、まるで化け物を見たかのような。――否、事実上化け物ではあるのだけれど。

「ああ、」

 この非現実を受け入れられる人間は、そうそういないだろう。

 創平が円に目を向けると、彼は心底どうでもいいといった表情を浮かべている。

「そこの『ニンゲン』。俺のことは最初から視えていたんだろ。来いよ、まとめて喰ってやる」

 それに反応したのは創平の方だ。円がわざと『ニンゲン』と言うのは、彼女の『不幸』そのものに興味を示していることの暗示である。ああ、と創平は新たな問題に頭を悩ませる羽目になった。また、始末書を書かなくてはいけないのかと思うと涙が出てくる。

 幸乃が助けを請うように創平を見た。その瞳にはうっすらと涙が溜まっている。

「あ、あなたたち……」

 おに、と声にならない声が彼女の口から洩れる。創平はゆっくりと膝をついて座り、幸乃に言い聞かせた。できるだけ優しい声色で、彼女をむやみに刺激しないよう細心の注意を払いながら。

「あっちは鬼ですが、私は違います」

「でも、喰うって……!」

「ええ、だから」

 創平はにこりと笑う。「あなたの『不幸』をね」

 そして、己が左腕に身につけていた無骨な腕時計を外した。時計はスーツのポケットに突っ込んで、残った左手で幸乃の震える右手を握る。彼女の唇から空気が洩れた。その瞳が向けられているのは、まさしく創平の左手首だ。

 彼の左手首――時計の下に隠されていたのは、鎖模様の痣。それが『鬼火』同様に縹色の光を放つ。

「円」

 やれ、と創平がいつになく冷たい口調で吐き捨てた。振り向かなくても分かる。円は静かに頷いて、再び印を結び直すのだ。

 それは祈りの姿にも似ている。行き場を失った『不幸』の炎を、そして人間の思考にこびりついて離れない『不幸』を、全てを代わりに背負うための。

 そして願う。

 再び『不幸』に取り憑かれることのないように、と。

 円が何かを呟いた。それは音だった。人間が決して口にすることのできない、発音できない音。それが聞こえた刹那、創平の身体は重力に引きつけられたかのようにずっしりと重くなる。息苦しい。

 顔をしかめながら横目で幸乃の様子を確認すると、彼女にはさほど負担がないようで、ただただ呆然と宙に浮かび上がる炎を見つめている。よかった、と創平は頭の片隅で思った。先述の通り、詞喰鬼が人間の頭から言霊を喰らう時強烈な快感に襲われる。だが、言霊ではなく人間に沁みついてしまった性質を喰らおうとすれば、耐えがたい苦痛に侵されるのである。円と直接契約関係にある創平が幸乃に触れていることで、彼女にかかる負担を肩替りしているのだ。幸い、言霊を喰らわれるよりは充分に耐えられる程度の苦痛だ。創平は歯を食いしばり、早く円が事を済ませてくれるように願う。

 浮かび上がる『鬼火』が、円を囲うように漂い始める。その周りには、黒い色をした霧のようなものがまとわりついていた。霧は幸乃の身体から噴き出している「もの」である。円はそれをしばらく観察し、ふぅん、と呟いた。

 そして思う。

 この女が持っているものは『不幸』じゃねぇな、と。

 まあ、一度喰うと決めてしまったので今更拒否できないが。

 口を僅かに開け、舌先で『鬼火』をなぞる。氷の冷たさが舌先の感覚を麻痺させる。この痛みが堪らなく好きだ。舐めて噛み付いて切り裂いたら、どれだけ美味しい蜜が出るのだろう。

 人の『不幸』は、蜜の味。

 言い得て妙だ。ふふ、と円が笑う。

「だから好きなんだよ。お前ら『ニンゲン』がさぁ」


 †


 テール・ランプは鋭い光を以て闇を一掃する。等間隔に立ち並ぶ街灯のうち、二つに一つは球切れで、ほとんどその意味をなさない。この街は闇に包囲されていた。

 まだだるい身体に鞭打って、創平は淡々と車を走らせていた。助手席には円が座っており、少々不機嫌そうな顔で真正面を睨めつけていた。機嫌が悪い理由も分かるけれど。創平は小さく息を吐いた。

 結論から言うと、円は『玻璃と意図』に込められた『不幸』、それから幸乃にこびりついていた『不幸ではないもの』の両方をかっくらって帰ってきた。その『不幸でないもの』がものすごく不味かったそうで、それが彼を苛立たせているのだった。

 あの後――円が食事を終えた後、幸乃は創平に泣きながら許しを求めた。『不幸でないもの』を喰われたあとの彼女はまるで憑き物が落ちたようだった。それくらい、彼女が持ち合わせていた雰囲気が変わってしまっていたのである。今の彼女には、少なくとも前の彼女が持っていた妖しさは全くと言っていいほど感じられない。

 為人氏の遺作『玻璃と意図』。創平は見ない方がいいと前置きしたのだが、幸乃はそれをどうしても見たいと言って聞かなかった。それを見ることは、確かに為人氏の遺言を守らなかったことにはなるのだが、どうしても最後にひとつだけ確かめておきたいことがある。幸乃の熱意に負けて、創平はしぶしぶ硝子の箱の中身を彼女に手渡したのだった。

 その中身は随分分厚い仮綴じにされた本で、為人氏がわざわざ自筆でしたためたものらしい。彼女はそれをゆっくりと、一頁ずつ丁寧に読んでいく。創平は内心彼女が発狂するんじゃないかとひやひやしていたが、そんなことはなかった。むしろその逆で、彼女は随分すっきりとした表情で一言だけ呟く。

 ――やはりあの人は、私を愛してなどいなかった。

 その仮綴じにされた本の内容は全て、前妻に捧ぐ手紙だった。

 幸乃は彼女自身が言う通り、前妻から為人氏を寝取っていた。彼も確かにそれなりに愛してくれたし、彼女はそれで満たされていた。だが、いざ結婚してみて痛感したことがある。為人は、自分よりも前妻の方を今も愛しているのだ、と。

 さすがに初めはただの被害妄想だと思っていた。だが、あるとき彼女は郵便受けに一通の手紙が入っていることに気が付いた。為人氏に宛てた手紙。そしてその送り主は、あの前妻だった。幸乃は為人氏に手紙を渡さず、こっそりと自室で開いてしまった。その内容から察するに、為人と前妻は今も時々会い、会えないときはこのように手紙を交わしているらしい。今まで幸乃がそれに気が付かなかったのは、普段為人氏が自ら郵便受けを開けているから。今日はたまたま彼が外出中だったために幸乃が開けてしまったのだが、それが運の尽きというやつだった。幸乃はその手紙を庭先で燃やした。妬ましかったのだ。前妻から為人氏の全てを奪ったと思っていたのに、実際はそうではなかった。奪えたものは、為人氏の妻という肩書だけ。その肩書に執着し、手に入れたことで満足していた自分はなんと愚かだったのだろう。

 それ以降、幸乃は為人に先回りをし、届いた手紙を回収しては全てを燃やしていた。為人氏はそれに対しなんとも思っていなかったようだが、次第に不審に思い始めたのか、ある日幸乃を問い詰めた。

 幸乃は知らん顔をしてその場を切り抜けたが、為人氏の疑念は留まることを知らない。使用人に内密に話をつけ、幸乃を監視させていたのだそうだ。いつも誰かから見られている。これではまるで囚人ではないか。確かに自分は無断で手紙を燃やしたが、向こうにも非があるではないか。日に日にエスカレートしてゆく監視。自由など一切ない。彼女はそのストレスに耐えきれなくなった。

 だから――

 殺したのです、と彼女は言った。

 全てを終わらせるために。妻という肩書きに執着している自分に心底嫌気がさしていたけれど、それを今更捨てる訳にもいかなかった。これは彼女の意地だった。例えそれが社会的に認められないことであろうとも、そうせざるを得なかった。彼女はこのときから、『不幸でないもの』に取り憑かれていた。

 その名は『愛憎』。

 彼を自殺に見せかけるのは本当に簡単だったという。なにせ、彼はミステリ作家の大御所だ。どうすれば他人に殺人だと気がつかれてしまうか、とてもよく知っていた。そして、その逆も。こういう類の話は常日頃聞かされていたので、苦労することはなかった。為人氏からすれば、まさか自分の考えた方法で殺されるなどとは考えてもみなかっただろう。

 この後、彼女は自首すると言って微笑んだ。

 ありがとう。……そこにいらっしゃる鬼さんにも、どうぞよろしくお伝えください。

「『玻璃と意図』、か」

 彼女の言葉を回想していると、円が突然口を開いた。

「うん?」

 まだ運転中なので、創平は返事だけしてその意味を確かめようとする。

「どうして、そんなものを遺作として残したんだろうな、って。遺言に残すくらい重要だったんじゃないのか」

 創平は頷いた。疲れたから停めるよ、と断りを入れ、徐々にブレーキをかけてゆく。

「――彼女のことが、大事だったから隠したんだろうな」

 車はゆっくりと減速し、路肩で停止した。エンジンを切ると、辺りはしんとした静寂に包まれる。

「為人氏は、自分の気持ちを殺したんだろ。前妻への未練を手紙に残して。硝子の箱に閉じ込めて、小さな密室なんか作ってさ。いずれ幸乃さんにも見つかるとは思っていたけれど、そうする必要があった。トリックも犯人もバレバレ。こんなものを、いつまでも家には置いておきたくないだろ。だって彼はミステリ作家だ。不完全なものは、プライドとして許せなかった。そんな醜い『死体』、彼女には見せるべきではない」

 円が口を開く。

「だから人間は面倒なんだよ。本当に」

 それにしても、と創平はスーツのポケットから携帯電話を取り出し、開いた状態で頭を抱えた。眉間に皺を寄せた表情がディスプレイの明かりに照らされて、ぼうっと浮かびあがっている。

「篠宮さんになんて説明しよう。また妙なことに巻き込まれて、挙句本の回収はできなかっただなんて言ったら……」

「あいつの言葉を借りれば、『おしおき』だな」

 円がやたらあっさりとした口調で言うものだから、創平はつい篠宮がそう言い出す様を想像して、一人青くなっている。悪い人ではない、むしろいい人なのだが、怒った篠宮は言葉にできないくらいに恐いのだ。

「言えない……言えないけど、言わなければそれはそれで恐い」

「創平。だからあの男は駄目だと言っただろ」

「だって」

 そこまで言いかけて、創平は次の言葉を飲み込んだ。円の視線が、強く何かを訴えていたからだ。その視線が言わんとしていることは何となくだが想像がつく。ただでさえ、彼は今機嫌が悪いのだ。

 外に人気はない。暗闇に塗りつぶされた円の表情。ヘッドライトの明るさのおかげでうっすらと見える彼の表情が、少々怒って見えた。

「……まさかとは思うけど、妬いてるのか」

 ここまでくると、創平の鈍感さは天下一品である。

 呆れられるかと思いきや、ぴくりと整った眉の端が震えたくらいで、円は表情を崩さなかった。彼がこんなに真面目な表情をしているのは本当に珍しい。

「ああ、妬いてるよ」

 そして、異常なまでに素直なところも。

 円の両手が伸び、創平の肩を掴む。右手が頬に伸び、するりと撫でると創平はすっかり気が動転してしまったようだ。顔を右に背け必死に抵抗するも、詞喰鬼は先述の通り力が強い。増して超絶インドアタイプの創平には勝てる要素がまるっきり、ない。

「まど、かっ」

 駄目だ、と声を絞り出す。その様子ににこりと微笑んだ円、愉しげに滑らせた指を顎元へ持っていく。ついと上を向かせると、彼の表情は羞恥にも似た歪みを浮かべていた。円が好きな表情のひとつだ。

 あまりに可愛いのでこのまま喰ってやろうか、と思った刹那。

 創平の携帯電話が鳴った。

 一瞬見せた隙に、創平の右手が動いた。次の瞬間には円の左頬に平手打ちが命中し、乾いた音が車内に響き渡る。この絶妙なタイミングで電話をかけてくる人物は、円が知る中では一人しか知らない。

 両手で円を押しのけた創平は携帯電話の通話ボタンを押し、動揺を隠すためにわざとらしくへらへらと笑いながら応対を始めている。

「あっ、し、篠宮さん!」

 やはりか。

 叩かれた頬を擦りながら小さく舌打ちする円を完全無視しつつ、創平はひたすら電話越しに平謝りに謝るのだった。


 了

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