第37話:壊れた翼と、愛の「棄権(ボーク)」
優勝決定戦、7回表。紀伊プラムス対ネオ・アイアンズの死闘は、1対1のまま終盤へと突入していた。
マウンド上のしみまるは、異様な光景を目にする。ワンバウンドしたフォークボールを止めた砂織が、一瞬、立ち上がれなかったのだ。
「砂織さん……!」
駆け寄ろうとするしみまるを、砂織は鋭い目つきで制した。その右手には、氷室レイから渡されたアンプルが握りしめられていた。
「……来ないで。私はまだ、あんたの球を捕れる」
砂織はしみまるに見せつけるように、そのアンプルを自身の肩へと突き立てようとした。強制的な筋力ブースト。それを使えば、痛みは消え、試合終了までその座を守れる。しかし、その後の彼女の右腕は、二度とボールを投げることはできなくなるだろう。
愛の拒絶
「待ってください、砂織さん!」
しみまるは砂織の手首を掴んだ。その手は、かつての義腕よりも強く、必死に震えていた。
「それを使ったら、砂織さんは……もう二度と、僕とキャッチボールができなくなる!」
「……いいのよ! 二人で優勝するって決めたでしょ! 私がここで退いたら、あんたを誰がリードするのよ!」
砂織の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。優勝への執念、そして愛する男の隣を誰にも譲りたくないという、あまりに人間らしいエゴ。
しみまるは、砂織の手からアンプルを奪い取り、それを迷わずグラウンドの土に叩きつけた。
「……そんな優勝、いりません」
スタジアムが静まり返る。
しみまるは主審に向き直り、はっきりとした声で告げた。
「……タイムです。捕手を交代させてください」
「なっ……!? しみまる君、何言ってるのよ! 交代したら、あんたの投球を誰が捕るっていうの!」
プラムスの控え捕手では、140km/hを超えるしみまるの球を完全に制御するのは難しい。それは敗北を認めるに等しい行為だった。
「砂織さん。僕は、優勝旗が欲しいんじゃない。……砂織さんと一緒に、これからの人生を歩きたいんです。今日ここであなたの肩が壊れたら、僕のこれからの勝利には何の意味もなくなってしまう」
しみまるは、砂織の泥だらけのプロテクターを優しく解いた。
「……休んでください。砂織さんがいなくても、僕がこの試合、守りきってみせます。それが、あなたのリードに応える唯一の方法だから」
砂織は、涙を拭いながらベンチへと退いた。代わりにマスクを被ったのは、若手の控え捕手。
絶体絶命のピンチ。だが、しみまるの背中に、もはや迷いはなかった。
「(……聴こえる。砂織さんがベンチで見守ってくれている、あの鼓動が……)」
しみまるは、右腕に宿る「生身の感覚」を研ぎ澄ませた。
サイボーグ「シン」を相手に、彼はこれまでのどんな試合よりも静かに、そして鋭く、白球を放った。
もはやサインはいらない。ベンチにいる砂織との「目に見えない糸」が、彼に最高のコースを教えていた。
「――ストライイクッ!! バッターアウト!!」
砂織のいないマウンドで、しみまるは孤独ではなかった。
愛する人を守るために、少年は今、本当の意味で「自立したエース」へと覚醒したのだ。




