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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 三章一話 流れの時 * 慶応二年 十二月
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ひび割れ

 夕暮れと言うにはまだ早い昼下がり、すっかり新選組の屯所としても定着してしまった西本願寺へ戻れば、場は既に騒然としていた。やはりどこぞから情報を持ち帰っていたらしい伊東が、孝明帝の崩御を知らせたところであったようだ。


「帝がこれほど唐突にお隠れになるなど……伊東先生、我々はこの先、どうなっていくんでしょう」


 広々とした境内の脇、変わらず雪のちらつく寒空が覗く拝殿の濡れ縁で、複数名の隊士達が落ち着かない表情を隠すことなく伊東を取り囲んでいた。


「そうですね……不安も仕方がありません。ですが、我々のお役目は変わりませんよ。この国を守り、盛り立てていくことこそ肝要。それだけは揺るがず行動していかねばなりません」


 伊東はわやわやと甘い物に群がる蟻のような様子の平隊士達にも煩わしい顔を見せることなく、慈悲深い穏やかな声で凛と答えた。周囲の者は、その言葉を咀嚼するように頷き、あるいはまだ不安が拭い切れぬ様子で「ですが」と言葉を募り、さらに伊東に身を寄せる。


 そんな様子を眺めながら、彼らとは逆の濡れ縁を辿って去ろうとしたところで、ふと伊東が斎藤に気付き、ふうわりと親しみをこめたような様子でやわらかく目元を和ませた。


 呼びかけられることはなく、ただそれだけだった。


 ゆえに斎藤も己のでき得る限りの親愛を込め、まなじりを下げて会釈を返す。と、伊東は深く頷き、また周囲の隊士らへの受け答えに戻っていく。


 ――この様子では、恐らくあの場だけでなく土方も既に噂を耳にしたことだろう。


 斎藤は改めて彼らに背を向け、歪に浮かべた表情をすっかり消した。


 あまり急いで帰って来る必要もなかったなと小さく溜息を吐いて、自室に足を向ける。


 人の気配が薄い自室へ戻れば、午前に斎藤が島原へ出る前にはまだ夜勤の引継ぎで戻っていなかった沖田が、分厚い掻い巻きにくるまってすやすやと眠っていた。斎藤が明かり障子を開け閉めした音にも指先ひとつ動かさず、深い呼吸を繰り返している様子からして、随分と深く寝入っているようだ。


 隊内の他の様子を沖田から聞こうかと考えていた斎藤だったが、これでは沖田自身がまだ話を耳にしていなさそうだと諦めの息を吐く。


 となると、己の足で屯所内をぐるりと回ってみるほうが早いだろうか。


 逡巡し、入って来たばかりの障子を振り返って手をかけたところで、


「――……ッ」


 背中から、ひゅっと掠れた呼吸音が聞こえたかと思うと、次いで乾いた咳が続いた。


「沖田さん、目が覚めたのか」


 無意識に出たものというより、掻い巻きの中に押し込めるようなくぐもった咳に、改めて沖田を振り返る。


 しかし沖田は答えることなく、「ケホ、ゲホ、コホ、ゴホ」と絶え間なく咳を繰り返すばかりだった。


 呼吸も満足にできていなさそうな咳の連続に、これでは水も飲めないなと、斎藤は沖田の傍らに膝をつき、掻い巻きの上からその背を撫でさする。


「けほ、すみ、ッ、ゴホ、コホ、すみませ、ケホッ」

「いいから。少し落ち着いたら、水を含んだほうがいい」


 元々冬は乾燥する季節だ。それゆえ、枕元に水差しが置かれていたのを幸いに、斎藤は沖田の背を撫でているのとは逆の手を伸ばした。


 が、ちょうどその瞬間。


「カハッ……」


 それまでの乾いた音とは異なる、明らかに湿った音が沖田の喉から響いた。


 反射的に首を回して見下ろすと、背を丸めて口元にあてがわれていた沖田のその手に、わずかな量ではあるが、鮮烈な赤が散っているのが目に映った。


「……あーあ……」


 咳は治まったが、ひゅうひゅうと息苦しさの名残を感じさせる呼吸音の合間に、沖田が憮然と嘆息を漏らす。


「……沖田さん……」


 間が悪い、とはまさにこのことだった。


「おい総司、起きてるか?」


 斎藤が声をかけたとほぼ同時、外から声がかかった瞬間に障子が開き、土方が姿を現す。


 本当に、時が止まったかのような錯覚に陥った。

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