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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 三章一話 流れの時 * 慶応二年 十二月
233/235

心用意

「……孝明天皇が、ご崩御あそばされた」


 斎藤の隣からも、かすかに息を呑む気配が伝わる。


 ――最悪だ。幕府の立場が、いよいよ悪くなるかもしれない。


 それを現実と突きつけられて、喉が絞まるような息詰まりを感じた。


 朝廷と幕府でそれぞれ立場や言い分が異なることも多かったが、それでもこれまで均衡を保っていられたのは、他でもない孝明帝が幕府に友好的だったからだ。これまで幕府への反発の声が上がったとて、孝明帝がいたからこそ、事が大きくなることもなく済んでいた。特に孝明帝は藍具松平家当主たる容保(かたもり)への信も篤く、その配下にあった新選組も含め、恩恵を受けていたことも紛れもない事実。


 文の中に、孝明帝崩御の理由などは何も書かれていなかった。


 体調が優れないなどの話は特に聞いていなかったが、直に会津本陣を訪れることのなくなっていた斎藤には知り得ない事情も多くあったろう。ただでさえ、宮中のことなど市井に話が漏れることは滅多にない。


 が、孝明帝は三十も半ばと、まだお若い身空だったはずだ。容保と年も近いからこその関係性が築かれていたと聞く。


 そんな孝明帝の崩御の原因は、果たして病か、あるいは――……暗殺か。


「……最悪だな」


 言ってもどうしようもないことだが、斎藤は思わず小さくささめいた。


 倒幕を謳う不逞の輩も変わらず跋扈している今、孝明帝の存在がなくなるだけで、奴らが一気に動き出す可能性もあるのではないだろうか。


「なんで……。……――いいえ。お返事、書かはりますか?」


 帝の崩御ともなれば、さすがに動揺が抑えきれなかったのだろうが、それでも月夜は余計な詮索をすることなく、静かに姿勢を正してそう問うた。


「……いや、返事はいい。また愁介殿が来られた折には、礼を伝えておいてくれ」


 そんな月夜に軽く視線を返し、斎藤はいくつかの金子を包んで月夜に握らせた。


 月夜は不安を押し隠した笑みをやわらかく浮かべ、あごを引いて懐にそれをしまい込む。


 斎藤は改めて膝の上の文に目を落とした。


 正式な報せはまだ先の予定だが、その内、どこかから話が漏れる可能性も高い。だからこそ伝えておくという愁介の静かな筆致を目でなぞり、暖を取るため傍らに置かれていた火鉢へその文を放り込む。


 じわじわと燃えて灰になっていくそれを淡々と眺め、それから斎藤は腰を上げた。


 が、わずかに腰が浮いたところで、月夜の華奢な手が斎藤の膝にそっと置かれる。


 訝って視線をやれば、月夜はただ穏やかに微笑んでいた。


いら(ヽヽ)つかはっても、えぇことありまへんえ」


 帝が儚くなったというのに、随分と悠長な物言いだった。


 が、それが敢えてであることも、わかりきっていた。


 ……土方に伝えなければ、とか。独自の情報網を築いているらしい伊東の様子を見なければ、とか。


 すべきことが次々脳裏に浮かんでも、月夜が改めて笛を構えたのを見て、斎藤は浮かしかけた腰を再びその場に据えた。


 途端、空気をまるごと包み込むような温かい篠笛の音が、静かにそよぎ始める。


 それをかき消さぬよう静かに溜息を吐き、斎藤は己の肩から力を抜くべく、目を閉じる。


 斎藤はこの笛の音が好きだった。


 月夜は琴や三味線、唄などよりも、笛を得意としている。竹笛から鳴るあたたかな音色は、斎藤に不思議と、幼い頃に過ごした楽しいひと時を思い出させてくれる。


 緑多き会津の城下、すぐ側に控える飯盛山の雄大な景観。それを見上げながら、(かづら)と共に感じた季節折々の情景――……。


 四半刻にも満たないひと時だったが、斎藤はほんのわずかの間、不安も焦りも押し込めて、胸の芯に響く笛の音に耳を傾けた。

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