望まぬ波乱
慶喜は将軍になる前、それこそ一橋姓であった頃から、会津や桑名との付き合いは長い。一会桑政権として共に京を守ってきた仲であるから、そんな慶喜が将軍になったことで、会津が窮地に追いやられることはないのだろう……とは思う。
が、幾度か容保が慶喜の奔放さに翻弄されている姿も見ているものだから、何をかいわんや。
しかも現状で将軍の後ろ盾があったとて、安心できる要素にはならないだろうとも思う。
――二年前、会津と共に長州を京から追い出したはずの薩摩も、今では幕府や会津を裏切り、長州と同盟を組んでいるらしいなどという噂を聞く。前将軍が亡くなられる前に行なわれるはずだった今年の長州征伐において、薩摩が出兵を拒絶したことから浮上した話だ。しかも、そうした薩摩の不参加により、結果として第二次長州征伐は失敗に終わり、幕軍の敗戦となって帰ってくることになってしまった。
新選組の出陣がなかった事も悔やまれたが、何にしても、幕府の威権は落ちるばかりだ。
果たしてそれを、慶喜が回復できるのか。
不敬な考えと言われればそうだろうが、斎藤はいかんせん、慶喜のあの気質を測りかねている。
思わずまた溜息を吐くと、そうして俯けた視界の端に、そろりと白い文が差し出された。
「……今の斎藤はんにお渡しするんは、気ぃ引けてしまいますのんやけど」
顔を上げれば、困ったように眉尻を下げた月夜が、まるで斎藤のそれが感染ってしまったかのように息を吐く。
「今朝、松平はんがいらっしゃって……できればお疲れが取れた後に渡しとくれやす言われとりましたんやけど」
愁介からの、文。
もちろん、個人的なものではない。二重間者として動いている斎藤と愁介とのかかわりを表面上、希薄に見せるための間接的なものだ。
昨年の夏、祇園祭の折、共に山南の墓へ参った後しばらくしてからは、屯所で顔を合わせることはあっても、次第に彼の人と直接会話を交わすことはほとんどなくなっていった。特に月夜という存在を斎藤が馴染みにして以降は、報告書も含め、やり取りはすべて月夜を通じておこなっている形だ。互いのためであり、会津のためであり――……万一、斎藤の動きがまずいところに知られることがあったとして、愁介を守るためでもある。
「……いい話では、なさそうだな」
差し出された文を受け取りながら、斎藤は低くぼやいた。
「うちは難しいことはよぉわからんけど……松平はんも、疲れた顔してはりましたねぇ」
難しいことはわからない、などと言いつつも、月夜は余計なことを言わないだけで頭が悪いわけではない。だからこそ、今のような立場にある斎藤の助力を任せられるのだし、年季明けが見えている――つまりいざという時の逃げ場は用意できるという時期だからとして、すべて承知の上で斎藤らに利用されてくれているのだ。
斎藤は曖昧にあごを引き、一度小さく呼吸を挟んでから文を開いた。
――同室である沖田という存在のお陰で、彼の人の声を聞く機会は今もそれなりにあるが、面と向かってあの笑顔を見られなくなってからは、随分経つ。それこそ疲れが溜まってきているからなのか、文から香る上質な墨の匂いを感じながら、会えたらいいのに……などと甘っちょろいことを考えてしまった。
が、そうして文を開いた、その瞬間。
「……ハ」
絶句の掠れた声が、意図せず斎藤の口から漏れ落ちた。
「……斎藤はん?」
普段感情が表に出ないと言われる斎藤ではあるが、それでも傍目から見ても様子がおかしかったのであろう、月夜が気遣うような声をそっと出す。
斎藤は息を呑むように喉を湿らせ、細く低く、呟き返した。
「……孝明天皇が、ご崩御あそばされた」




