第九十七話 ルカの幻「切る前の自分」
ルカが幻を見たのは、その夜だった。
廃都市の中で一夜を過ごすことになった。首領が翌朝の再交渉を認めたからだ。私たちは建物の一角に落ち着いて、交代で休んだ。
私の当直の番に、甲板……ではなく、廃都市の建物の外壁近くで、ルカが座り込んでいるのを見つけた。膝を抱えて、壁に背中を預けている。起きているのか眠っているのか、最初は判断がつかなかった。
近づくと、目は開いていた。でも、焦点が合っていない。幻だ。
「ルカ」
声をかけると、返事が来なかった。ゆっくりと座り込み、ルカの隣に並んだ。壁の感情の光が、ゆっくりと揺れている。ルカが何を見ているのか、声をかけずに待った。
十分ほどして、ルカが息を吐いた。
「……見てたか」
「隣にいただけ。何を見てたの」
ルカは膝の上で手を組んで、しばらく黙っていた。欠けたハサミが、膝の横に置かれている。
「切る前の俺を見てた。ハサミを持つ前の、ただの子どもだった頃の俺」
「どんな子どもだった?」
「うるさかった。よく喋って、よく笑って、誰かの隣にいたがってた。……今の俺とは全然違う」
ルカが苦笑した。自分のことを、少し遠くで見ているような笑い方だった。
「その子が、ハサミを手にした瞬間も見えた。最初に何かを切った時の感触も。……あの時は、切ることが解放だと思った。縛られていたものから自由になれると思った」
「解放された?」
「少しだけ。でも、切り続けるうちに、解放じゃなくて習慣になった。考えるより先に切るようになった。……そのうち、何を切りたくて切っているのか、分からなくなった」
壁の光が、橙色に揺れた。
その時、建物の中からウルが顔を出した。当直の交代時間より早かったが、眠れなかったのだろう。私とルカが並んで壁に寄りかかっているのを見て、一瞬だけ表情が動いた。それからウルは何も言わずに、ルカの反対側の壁に背中を預けて座った。
ルカがウルを見た。
「……邪魔するな」
「邪魔してない。隣にいるだけ」
「さっきまで主様が言ってたのと同じ台詞だな」
「主様から学んだから」
ルカが短く息を吐いた。笑ったのかもしれない、吐息だけで終わった笑いだ。
「ウル」
「なに」
「お前、俺のことずっと嫌いだったよな」
「嫌いだった」
ウルは躊躇なく言った。嘘をつかない子だ。ルカもそれを知っているから、聞いた。
「今は?」
ウルが少し考えた。本当に考えた。答えを探す間があった。
「……今は、心配してる。嫌いとか好きとかより、お前が大丈夫かどうかが気になる。それって、嫌いとは違うと思う」
ルカが、また息を吐いた。今度は少し長かった。
「……そうか」
「僕、昔の僕は嫌いだったよ。主様を閉じ込めてた頃の僕。でも今日、幻で見て、あの頃の僕も怖かったんだって分かった。怖くて、だから閉じ込めてた。……お前も、怖くて切ってたんだろ」
ルカが静かになった。
「……うるさい」
「本当のことだから言った」
三人で、しばらく黙っていた。廃都市の夜が続いていた。感情の光が壁の中で揺れている。誰かの怖れが、誰かの哀しみが、誰かの愛情が、同じ壁の中に混ざり合って眠っている。
私はその光を見ながら、明日のことを考えていた。首領と話す。術式を止める。でも、どんな結末であれ、今夜この三人で並んでいるこの時間が、先に続く何かに繋がっている気がした。
ウルがあくびをした。それから私の肩に、そっと頭を乗せた。
「眠い」
「当直中でしょ」
「目は開けてる。……ちょっとだけ、いい?」
「ちょっとだけ」
ウルの重みが、肩に伝わった。いつもの、子犬みたいな甘え方だ。でも今夜のそれは、甘えというより、確かめているような重さだった。今日見た幻の後で、現在の温度を確かめている。
ルカがそれを見て、何か言おうとして、やめた。代わりに、壁に頭を預けて目を閉じた。
三人で夜を明かした。




