第八十八話 結衣のハサミ、ルカの針
ルカが目を開けたのは、しばらく経ってからだった。
雨がまた少し強くなっていた。ルカはゆっくりと腰からハサミを外した。刃の先が欠けたハサミだ。手のひらに乗せて、見下ろした。
「直す必要はないと思う。でも、直したいと思った時に直せる状態でいてほしい。欠けたままの刃は、欠けているからこそ切れるものがある。でも、直してもらえる場所があることを、知っていてほしい」
ルカが長い間、私を見た。
「……それって、結衣が直すってこと?」
「直したいと言ってくれたら、直す。言わなくても追いかけるけど、直すのはあなたが決める」
ルカはしばらく何も言わなかった。ハサミを手の中で転がしていた。
それから、ハサミを私に向かって差し出した。渡す動作ではなく、見せる動作だ。欠けた刃先を、職人の目で見てほしかったのだと思う。
私は銀の針を取り出して、ルカのハサミの欠けた刃先にそっと当てた。修復しようとしたのではない。ただ、触れた。針とハサミが一点で触れた瞬間、銀の針が橙色に光った。
ルカが息を止めた。
「……温かい。ハサミが、温かくなった。こんなの、初めてだ」
「あなたのハサミは、切るために作られたものじゃなかったから。縫ってもらうことを待っていたのかもしれない」
ルカが、ゆっくりとハサミを引いた。針と離れると、橙色の光も消えた。でも、ルカの手の中のハサミは、さっきよりも少しだけ色が温かく見えた。
岩陰の外で、雨が弱まっていた。雲が少し薄くなって、遠くの海が灰色から少しだけ青みを帯びた色に変わっていた。
「俺はまだ、すぐには戻れない。でも……終わったら、あの店の近くに行ってもいいか」
ウルが声を出しそうになって、アルが腕を引いた。私は笑いたかったが、うまく笑えなかった。代わりに、銀の針を一度だけルカに向けた。橙色の光が細い糸のように伸びてルカのカーディガンの端に触れて、消えた。
「いつでもいらっしゃい」
ルカが、ほんの少しだけ口の端を上げた。
雨が止んでいた。
崖から砂浜へ降りる道を全員で下りた後、ウルが私の隣に来て、こっそり耳元で言った。
「よかった。本当によかった」
「うん」
「……主様も泣きそうだった」
「泣いてない」
「目が赤い」
「気のせい」
ウルが、ふっと笑った。その笑顔が、どこかほっとした顔だった。




