第七十五話 「切ること」の痛みを知る夜
廃工房を出た後、集落の宿に一泊することにした。
漁師の一人が部屋を貸してくれた。狭いが清潔で、窓から海が見える。夕食に出された干した魚と芋の煮物は、素朴な味がした。ノアが「これ好き」と言って二皿目を頼んでいた。それだけで、今日一日がよかったと思えた。
夕食の後、宿の小さな共用室で、全員でお茶を飲んだ。島にいた頃と違って船の揺れがない分、なんとなく足元が落ち着く。ウルが干した果物を齧りながら、レオネルに何か話しかけていた。アルが手帳を読んでいた。ノアが折り紙を折っていた。
こういう夜が好きだと思った。何も起きていない夜。みんなが同じ部屋にいる夜。
ウルが私に気づいて、隣に来た。
「何笑ってるの?」
「笑ってた?」
「うん、ちょっとだけ」
「みんながいるなと思って」
ウルが少し首を傾けた。それから「そっか」と言って、私の肩に頭を乗せた。
夜になって、全員が眠りについた後、私は一人で外に出た。
宿の前の細い道を下ると、小さな浜辺に出た。砂ではなく小石の浜で、波が引くたびに石がカラカラと転がる音がする。月が出ていて、海面が銀色に光っていた。
廃工房で見た壁の絵と、紙切れの言葉が頭から離れなかった。切れば、楽になると思っていた。
「眠れないの?」
背後から声がして、振り返った。ノアだった。宿の上着を羽織ったまま、手に折り紙の紙を持っている。
「うん。ノアは?」
「俺も。……廃工房のこと、考えてた」
二人で並んで小石の浜に座った。波が引くたびに、カラカラと音がした。
「ルカのこと、分かる気がする」
ノアが静かに言った。
「切ることが楽になると思うのは、繋がっていることが怖いからだろ。繋がっていれば、相手が変わった時に自分も変わらなきゃいけない。……俺は長い間、痛みを飲み込む役割だったから、繋がることの怖さは、まだよく分からない」
「それは慣れるものじゃないと思う。怖いまま、繋がるしかない」
ノアは手の中の折り紙の紙を、ゆっくりと折り始めた。指先が慎重に動いている。
「……結衣」
「なに」
「俺、地下室にいた時、叔父さんのことが嫌いだった。でも今は、それでもここにいることを選んでる。俺が選んでる。……それが、叔父さんへの答えなのかもしれない」
ノアが折り紙の鳥を完成させた。前より少し綺麗にできていた。彼はそれを海に向かって、そっと投げた。紙の鳥は月明かりの中を少しだけ飛んで、波に吸い込まれた。
宿に戻る前に、ノアがぼそりと言った。
「……お前と話すと、少しだけ軽くなる」
「それは良かった」
「褒めてない」
「褒め言葉として受け取った」
ノアが「勝手に受け取るな」と言って、でも口の端が上がっていた。月が高く上がっていた。
(第十五章 完)




