第六十六話 修行の始まり、「一本の糸を織る」だけ
修行の内容を告げられたのは、島に来て五日目の朝のことだった。
シズに呼ばれて工房の奥の小部屋へ向かうと、机の上に小さな木箱が置いてあった。蓋を開けると、中には細い糸が一本だけ収まっていた。光の角度によって色が変わる。真正面から見ると白いのに、斜めにすると薄い金色が混じって、さらに角度を変えると水色の光を帯びる。今まで見たことのない糸だった。
「今日はこれを、あの織機に通しなさい。ただし、夕方までかけて通しなさい」
夕方まで、というのが引っかかった。糸を一本通すだけなら、五分もあれば十分だ。それを一日かけてやれという意味が、最初はどうしても分からなかった。
シズは「お前が決めなさい」とだけ言って、工房へ戻っていった。
私は机の前に座り、糸を見つめた。縫うことは過去を繋ぐ。織ることは未来を作る。この糸に込めるのは、過去の技術ではなく、まだ存在しないものへの意図のはずだ。でも、それが何なのかが分からない。
気づけば一時間が過ぎていた。糸はまだ机の上にある。織機に一ミリも近づいていない。
昼を過ぎた頃、扉を叩く音がして、ウルが顔を出した。
「差し入れ。……どう? 進んでる?」
「全然」
「ふーん。主様が詰まるの、初めて見た」
島の人に教わったという干した果物と平たいパンを置いて、ウルが私の隣に腰を下ろした。ちゃっかりしている。
「一本の糸に、まだ存在しない何かを込めるって、どういうことだろう」
ウルが干した果物を一つ口に入れながら、少し考えた。
「……主様は、何のためにここへ来たの?」
「ルカを連れ戻すために。叔父の謎を解くために」
「それだけ?」
問い返され、私は黙った。それだけ、ではない気がした。
「糸に込めるのって、目的とかより先に、気持ちだと思う。僕、主様にこうあってほしいって思う時、計画より先に気持ちが来るから」
その言葉が、何かに触れた気がした。
そこへ、アルが差し入れのお茶を持って入ってきた。
「ウル、主様のお邪魔をしないでください」
「邪魔してない。ヒント出してた」
「ヒントを出していいのは修行中ではありません」
「でも詰まってたから」
「詰まることも修行の一部です」
二人が言い合いを始めた。私は思わず笑った。シリアスに考え込んでいた頭が、少し軽くなった。
「二人とも、ありがとう」
「え、俺怒られてない?」
「怒ってない。助かった」
ウルが嬉しそうに笑った。アルが「役には立っていません」と言いながら、でも少し照れたように眼鏡を押し上げた。
夕方、私は糸を織機の前に持っていき、目を閉じた。この旅が終わった先に、何があってほしいのか。ルカが笑っている場所。仲間たちがそれぞれの好きを持って生きている世界。そういうものを、手の中の糸に向かって、静かに念じた。
糸が、かすかに金色に光った。
私はゆっくりと、一本の糸を織機に通し始めた。シズが夕方に来た時、まだ半分も終わっていなかった。でも、シズは何も言わなかった。ただ糸を見て、短く頷いた。「始まった」を確認している顔だった。




