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第六十話 嵐を「縫い止める」代償



縫い目を外すのに、三十分かかった。

四点の力の集まり目のうち、二点は囮だった。本当の要所は海面近くに隠されていて、表面の嵐を解いたところで根本は残ったままだった。雨の中でそれに気づいた時は、正直、笑いたくなった。こういう意地悪な縫い方、叔父がよくやっていた。

(囮を丁寧に作るのが、本物の職人よ)

叔父の声がどこかで聞こえた気がして、私は海面に膝をつくように身を低くした。波しぶきが顔を濡らす。

波と波の間に、魔力の糸が凝り固まっている場所があった。誰かが相当な時間をかけて、念入りに縫い込んだ痕跡だ。これを外すのは簡単じゃない。

「結衣様、体を支えます」

アルが背後から私の腰を抱えた。波に流されないように、という実用的な理由だと分かっていても、今の私にはその体温が有難かった。

「ウル、私の右を」

「はい!」

「ノア、船底から魔力を引き抜いてくれる? この綻びに引っ張られてる分を、あなたが代わりに吸ってほしい」

ノアが一瞬、固まった。

「……それ、僕に海の声が聞こえやすくなるってことだろ」

「ええ。でも今度は、あなたの意志で吸う。飲み込まされるんじゃなくて、あなたが選んで受け取る。違いが分かる?」

ノアは雨に濡れた顔で私を見た。赤い瞳が細くなる。それから、小さく頷いた。

「……分かった」

レオネルが無言で、ノアの背中に手を置いた。ノアは驚いたように振り返ったが、何も言わなかった。

私は最後の一針を、海の綻びの核心に差し込んだ。シュ、と引き抜くような感触。嵐の縫い目全体がぶわりと緩み、渦巻いていた雲が外側へと解けていく。雨足が弱くなる。波が低くなる。

その代わりに、銀の針に重さが加わった。

手の中で針を確かめる。見た目は変わらない。でも確かに、少しだけ重くなっている。アルが静かに言った。

「針に、何かが刻まれました」

「海の記憶、だと思う」

橙色の芯の中に、かすかに青い光が混じっている。この嵐を縫い込んだ誰かの記憶。来るな、ではなく、覚悟を持って来い、という意味だったのかもしれない。

雲の切れ間から、夕陽が差し込んできた。

甲板に倒れ込むようにして腰を下ろしたウルが、腕で顔を覆いながら「勝った……」と呟いた。

「主様、怪我は!?」

すぐに飛び起きて、私の手を取った。針仕事で指先が赤くなっているのを見て、眉が下がった。

「痛かったでしょ、こんなになって」

「大丈夫。慣れてるから」

「慣れてるからってほっといていい話じゃない」

ウルが私の指先を、両手で包んで息を吹きかけた。温かい息が、冷え切った指に届く。アルが反対側から来て、傷の具合を確認した。二人が私の両手を同時に見ていて、少し窮屈だったが、それが嬉しかった。

「アル、ウルと被ってる」

「左右で分担しています。問題ありません」

「俺、右がよかったんだけど」とウルが言い、「先に来た方が優先です」とアルが返した。

ノアがぐったりして船室の入り口に座り込んでいたが、レオネルがそこに毛布を持っていくのを、黙って受け取っていた。ノアが毛布を羽織りながら、こちらを見た。

「……お疲れ、結衣」

ぶっきらぼうな言い方だったが、ちゃんと届いた。

夕陽の中で、針の青い光がちかりと瞬いた。機織りの島は、まだ遠い。でも確かに、近づいている。両手を温めてもらいながら、私はそれだけ思った。


(第十二章 完)


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