第五十九話 嵐の核心、縫い目を持つ波
嵐の前の朝は、妙に穏やかだった。
海が凪いで、空気が澄んでいる。甲板に出ると、水平線が鮮明に見えた。こういう朝は、たいてい何かの前触れだ。
朝食の時間に、全員が揃った。アルが用意したスープと硬いパンの、質素な食事だ。狭い船室のテーブルを囲んで、七人で食べる。船が思ったより狭いので、ウルの肘が私の脇腹に当たる。アルの腕が私の左側にある。
「ウル、狭い」
「でも俺、主様の隣がいい」
「アルはどこ行くの」
「私は右側です。ウルは左に行ってください」
「えー、左は海側で揺れるじゃん」
「では交代で」
「交代しない。俺ずっとここにいる」
レオネルが、向かいでスープを飲みながら「毎朝これか」と呟いた。ノアが「うるさい」と言いながら、でも口の端が上がっていた。
そんな朝の空気が、昼過ぎに一変した。
空が急に低くなった、と感じたら、もうそこここで縄がひとりでに解け始めていた。帆を固定していた結び目が、誰も触っていないのにほどけていく。木材の継ぎ目から、小さな悲鳴のような軋みが立て続けに上がる。ウルが「また綻びてる!」と叫び、アルが「東の結界を張ります」と走り、レオネルが帆柱の根元を体で押さえた。
けれど私の目は、空に向いていた。
積乱雲が渦を巻いている。それだけなら嵐だ。問題は、その雲の渦の中心に、うっすらと光る「線」が見えることだった。雲と雲の間を縫うように走る、細い橙色の線。嵐の目に向かって、放射状に伸びている。
(縫い目だ)
この嵐には縫い目がある。誰かが意図して作り出した、巨大な綻びだ。縫い物を長年やってきた目が、それを見抜いていた。
「アル!」
「見えています。……これは自然現象ではない」
アルが私の隣に立ち、眼鏡を光らせながら空を分析した。雨粒が一粒、二粒と甲板を叩き始める。
「誰かが、この海域に『綻び』を仕掛けた。嵐を起点にして、境界の海全体の魔力の流れを乱そうとしている」
「私たちを止めること、が目的ね」
「あるいは、この道を通る縫う者全てに向けられた罠かもしれません」
ルカが通った海だ。叔父が越えた海だ。
風が本格的に吹き始めた。波頭が白くなる。
「結衣殿! 帆を降ろす。手伝ってくれ」
レオネルの声に、ウルが飛びついた。ノアが船室から出てきて、船底を手で押さえながら魔力の漏れを塞ぎ始める。昨日あれほど消耗していたのに、今日は自分から動いている。
私は甲板の中央に立ち、銀の針を空へ向けた。嵐の目を見る。縫い目の走り方を読む。
(中心じゃない。外側の四箇所に、力の集まり目がある)
見えた。
「ウル、東の雲に炎を! アル、西側の風を圧縮して!」
「了解!」「承知しました」
二人が同時に動いた。ウルの黄金の炎が東の雲を裂き、アルの氷の圧縮が西の気流を押し返す。嵐の縫い目に、わずかな「弛み」が生まれた。そこに、私は針を通した。シュッ、と。空気を縫う感触が、腕全体に伝わった。




