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第五十八話 ノアの「深淵」が海に共鳴する



三日目の夕暮れ時、ノアが倒れた。

倒れた、というより崩れ落ちた、という方が正確だった。船尾の手すりに寄りかかって海を眺めていた彼が、突然膝から力を失い、甲板に手をついた。音を立てずに崩れるその様子が、むしろ余計に怖かった。

「ノア!」

駆け寄ると、彼の手のひらから黒い霧のようなものが滲み出していた。深淵魔法の暴走だ。今まで見てきたものとは違う。今の霧は方向を持たず、ただ彼自身を包み込むように広がっている。

「大丈夫、か?」

ノアは顔を上げたが、焦点が合っていなかった。赤い瞳が、私ではなく海の方を向いている。

「……うるさい」

「え?」

「海が、うるさい。ずっと話しかけてくる。……僕の魔法に、共鳴しようとしてる」

アルが素早く膝をついて、ノアの脈を確かめた。

「境界の海の魔力と、ノアの深淵魔法が干渉し合っています。どちらも『痛みや負の感情を吸収する』性質を持っている。海が仲間だと思って、ノアに話しかけている状態です」

「ノア、私の声、聞こえる?」

私はノアの前に座り込み、彼の手首を両手で包んだ。黒い霧が指先に触れる。冷たい。けれど、怖くない。この冷たさは知っている。

「……聞こえてる」

「何て言ってる? 海が」

ノアは少し黙ってから、絞り出すように答えた。

「お前も同じだろう、って。……痛みを飲み込んで、誰かのために消えていくだけの存在だろう、って。一緒に底に沈もう、って」

「ノア」

「……なに」

「あなたは今、何が好き?」

唐突な問いに、ノアが眉をひそめた。

「急に何」

「答えて」

ノアは海から視線を引き剥がし、渋々という顔で私を見た。

「……甘いジャムのパン。アルが入れてくれるぬるめのお茶。……折り紙。あと」

彼は言いかけて止まった。赤い瞳が、少しだけ揺れる。

「あと?」

「……こういう時に、お前が来てくれること」

黒い霧が、少しだけ薄くなった。

「甲板から離れましょう、ノア。今夜は船室にいて」

「……情けない」

「情けなくない。海の声に気づけるのは、あなただけよ。それは力よ」

ノアは何も言わなかった。でも、私の手を振り払わなかった。ウルがそっと反対側からノアの肩を支えた。ノアは少しだけ身を固くしたが、やはり払わなかった。

船室に戻って、ノアを毛布に包ませた。アルが薬草茶を持ってきた。ウルがノアの隣にどかりと座って「一緒にいる」と言った。ノアが「近い」と言って少しずれた。ウルがまた近づいた。

「ウル、距離感」

「俺、こういう時じっとできないタイプなんだよ。許して」

「許さない」

「えー」

そのやり取りを聞きながら、アルが私の隣に来て小声で言った。

「……ノアの顔色が、少し戻ってきました」

確かに。さっきまで白かった頬に、わずかに血の色が戻っている。ウルのうるさい存在感が、海の声を遠ざけているのかもしれない。これがウルの力の本質だと、私は思った。陽炎ではなく、この明るさそのものが。

「アル」

「はい」

「あなたもいてあげて。ノアの反対側に」

アルが少し間を置いてから、静かにノアの反対側に腰を下ろした。ウルとアルに挟まれたノアが、少し困ったような顔をして、それから諦めたように目を閉じた。

その顔が、地下室で一人でいた頃のノアと、こんなにも違う。


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