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第五十七話 船が「綻び」はじめる



異変に最初に気づいたのは、アルだった。

翌朝の航路確認を終えた後、彼は船底の検分に下りていき、しばらくして血の気を失った顔で戻ってきた。眼鏡のブリッジを押し上げる指が、いつもと違う角度で止まっている。アルが動揺を指先に出す時は、よほどのことだ。

「結衣様。少し、来ていただけますか」

案内されたのは、船の中央部の竜骨に近い場所だった。ランプを近づけると、太い木材の表面に、髪の毛一本ほどの細い亀裂が走っているのが見えた。よく見ると亀裂の縁が奇妙にほつれていた。木が割れているのではなく、まるで布の繊維がほどけるように、木材そのものが糸状に細くなって解けかけている。

「触ってみてください」

アルに促され、指先を当てる。

(……あ)

分かった瞬間、胃が冷えた。これは劣化じゃない。腐食でもない。木材の中に染み込んでいた「職人の魂」が、外側へと引き抜かれている感触だ。この船を造った大工が、一本一本の木材に込めた誇りと技術の記憶が、境界の海に少しずつ吸い取られている。

「船が、綻びてる」

「ええ。昨夜の霧が濃くなり始めた頃から、徐々に進行しているようです。このままでは一週間以内に、船としての構造を維持できなくなります」

甲板に戻ると、ウルとノアとレオネルが集まっていた。事情を話すと、ウルはすぐに顔色を変えた。レオネルは剣の柄を握り直した。ノアだけが、静かに船の床板を踏みしめ、何かを確かめるように目を細めていた。

「なあ、結衣。この船、泣いてるの分かるか」

「泣いてる……?」

「うん。痛いっていうより、淋しいみたいな。ずっと誰かに使われてきたのに、急に自分の中身を持って行かれてるから」

ノアにはそれが分かる。自分もずっと、誰かの痛みを飲み込んで、それを自分の中身として持ち続けてきたから。彼はそれを言葉にはしなかったが、私には伝わった。

「直せる。縫い直すには船の声を聞かなきゃいけないから、時間をかけていいですか」

「もちろんです、結衣様」

私は甲板に膝をついた。銀の針を取り出し、木材に触れる。すると、すぐ横にウルが膝をついた。

「俺も何かできる?」

「守っていてくれれば十分よ」

「分かった。……じゃあここにいる」

ウルが私のすぐ隣に陣取った。するとアルが反対側に来て、静かに私の背後に立った。ウルがアルをちらりと見る。

「アル、俺、ここにいるから」

「私は主様の背後です。ウルとは被りません」

「でも俺の方が近い」

「距離の問題ではありません」

二人がひそひそと張り合っている。平和だ、と思いながら、私は一針目を通した。木材の中の、細い細い記憶の糸を拾い上げて、丁寧に元の場所へ送り返す。大工が木を削った時の手の感触。鑿の刃が木目に沿って入っていく時の、あの小さな達成感。そういうものが、糸の形をして指先に伝わってくる。

(あなたの仕事は、ちゃんとここにある。持って行かせない)

二針目。三針目。甲板の振動が、少しずつ落ち着いてきた。

ウルが針仕事の合間に、私の手元をじっと見ていた。しばらくして、ぽつりと言った。

「主様って、こういう時の顔が一番好きかも」

「どういう顔?」

「真剣な顔。……自分の仕事をしてる顔。ブラック工房で泣いてた頃の話を聞いてるから、こうやって針を持てるようになった主様が、俺はすごく好きなんだよ」

針を持つ手が、一瞬だけ止まりそうになった。止めなかったけれど。

「……ありがとう、ウル」

「照れてる?」

「照れてない」

「耳が赤いよ」

「縫う邪魔しないで」

ウルがくすくすと笑った。アルが「ウル、静かにしてください」と言った。ノアが遠くから「うるさい」と言った。レオネルが苦笑していた。甲板の振動が、また少し落ち着いた。


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