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第五十六話 霧の海と、眠れない当直



出航から三日が過ぎた夜のことだった。

甲板に立つと、空気の質が変わっていることに気づく。王都の港を出た時のあの、潮と石畳と人の体温が混ざり合ったにぎやかな匂いは、もうどこにもない。代わりに漂っているのは、濡れた綿を握りしめたような、密度のある静けさだ。波音さえ遠く、まるで世界が少しずつ水に溶けているみたいだった。

「……霧が出てきた」

私の呟きに、当直のウルが振り返った。蜂蜜色の髪が、湿気を帯びてふわりと頬に貼りつく。彼はいつもの無邪気な表情の代わりに、何かを探すような目で水平線を見つめていた。

「主様、起きてたんですか。……もう真夜中ですよ」

「眠れなくて。なんだか、この海、変な感じがして」

変な、というのは言葉が足りない。正確には――聞こえるのだ。

波の下から、微かな音が。弦楽器の最低音をさらに半音下げたような、胸の奥に直接触れてくる振動。それは音というより、感覚に近い。銀の針を握りしめると、その振動が指先に伝わってくる。まるで針が共鳴しているみたいに。

「ウル。あなたにも聞こえる?」

ウルは少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。

「……聞こえる、っていうか。感じる、に近い。甲板に出た時から、なんか胸がざわざわしてて」

彼が手すりに身を乗り出すと、霧の向こうに、淡い光の粒が浮かんでいるのが見えた。ひとつ、ふたつ。やがてそれは数えきれないほどに増え、波に揺られてゆらゆらと漂っている。まるで水面に落ちた星のようだ。美しくて、けれどどこか悲しい光だった。

「……あれ、なんだろう」

私は手すりから手を離し、銀の針を構えた。神の魔力は失われた。けれどこの針には、今まで縫い合わせてきた人々の温もりが染み込んでいる。その針を光の方へそっと向けると――

ぞくり、と。

脊髄を指先で辿られるような感覚が走った。

(……これ、知ってる。この感触)

分かった瞬間、息が止まりそうになった。あの光の粒のひとつひとつは、私が王都で縫い合わせた人形たちの記憶の断片だ。喜びの欠片、悲しみの残滓、誰かを愛した夜の温度。縫い合わせた時に私の魔力が染み込んだそれらが、何らかの理由でここまで流れ着き、海面に溶け出している。

「ウル」

「うん、分かった。……主様の知ってるものだ」

彼が先に言ってくれた。指先で感じる共有のステッチが、かすかに脈打っている。

私たちはしばらく並んで、その光の群れを見つめていた。波に揺られ、霧に滲み、それでも消えない小さな光たち。かつて誰かが大切に抱いていた人形に宿っていたもの。それがいつのまにか、こんな海の真ん中まで流れ着いていた。

「……なんで、ここにあるんだろう」

独り言のように呟くと、ウルが私の隣に立って、肩に軽く体重を預けてきた。子犬みたいな甘え方だけど、今夜はそれがちょうどいい重さだった。

「世界って、意外と全部繋がってるんじゃないかな。主様が縫い合わせたものが、ここまで流れてきて。……なんか、見守られてる感じ、しない?」

私は笑おうとして、うまく笑えなかった。代わりに、銀の針をそっと胸元に戻した。

針が、一瞬だけ、橙色に光った気がした。

霧が深くなっていく。磁針がおかしいとアルが言っていたのは昨日のことだ。この海には、普通の船乗りの勘が通じない何かがある。叔父ジョンが越えた海。ルカが渡った海。そして今、私たちが越えようとしている海。

光の粒が、波に揺れながら遠ざかっていく。

「……行きましょう、ウル。アルを起こして、明日の航路を確認しておかなきゃ」

「はーい。……でも主様、今夜はちゃんと寝てくださいよ。寝不足の主様の顔、好きじゃないんで」

「あなたが心配するから眠れないの」

「えっ、責任転嫁がすごい」

ウルが笑いながらアルを起こしに行った。しばらくして、船室から「ウル、何時だと思ってるんですか」「緊急事態!」「どこが緊急なんですか」という声が飛び出てきた。いつものやり取りだ。この海の真ん中でも変わらない。それだけで、少し肩の力が抜けた。

アルが出てきた時、眼鏡が少し傾いていた。寝起きのアルだ。珍しい。彼はすぐに眼鏡を直して、何事もなかったような顔をしたが、私はちゃんと見ていた。

「……何か見つかりましたか、結衣様」

「うん。でも今夜はもう大丈夫。明日話す」

「では、今夜は休んでください。……ウルが心配して眠れないと困るので」

「アルだって心配してるでしょ」

アルが一瞬だけ黙って、眼鏡を押し上げた。

「……それはそうです」

その素直さが、出航前より増している気がした。甲板に残された私は、もう一度だけ水面を見た。光の粒はもうほとんど見えない。でも消えたわけじゃない。ただ、霧の向こうに溶け込んでいるだけだ。針の橙色が、まだ温かかった。



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