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第六話 初めての「外」からの扉


 異世界の朝は、驚くほど静かで、そして甘い匂いがした。

 窓を開けると、天から降ってくる魔法の綿が、キラキラと朝陽を反射して街中を淡い光で満たしている。遠くで街の鐘が低く鳴り、石畳を馬車が駆ける音が微かに聞こえてくる。路地の端では鳥が鳴き、誰かが窓を開けてパンを焼く匂いを漂わせた。全部が、ちゃんと存在しているという証明みたいだった。

 私は叔父が遺した『ジョンの人形店』の二階、居住スペースの窓辺で大きく背伸びをした。

「……夢じゃ、なかったんだよね」

 自分の指先を見る。昨夜までこびりついていたブラック工房での焦燥感も、誰かに否定され続けた痛みも、もうそこにはない。あるのは、一針ごとに世界を癒やしたという、職人としての確かな充足感だけだった。

「主様、おはようございます。起きて早々そんなに自分の手を見つめて……僕たちのこと、触りたくなっちゃいました?」

 背後から、とろけるような蜂蜜色の声がした。振り返ると、人間姿のウルがいた。緩くはだけた寝衣のまま、彼は眠たげな目を細めて私の腰にふわりと抱きついてくる。

「もう、ウル。おはよう。……触りたいっていうか、朝ごはんの準備をしなきゃって思ってたの」

「朝食ならアルが用意していますよ。それより、主様の充電が先です。……ふわぁ、あったかい。主様は、綿よりもずっと柔らかくて、いい匂いがする」

 ウルが私の首筋に顔を埋め、すりすりと甘えてくる。その体温はテディベアの時と同じように温かく、私の心をあっさりと解かしていく。

「ウル、朝から主様を困らせないでください。……結衣様、おはようございます。お召し物はそちらに用意してありますよ」

 部屋に入ってきたアルは、既に完璧な身のこなしで、湯気の立つハーブティーをテーブルに置いた。眼鏡の奥の瞳が、私を慈しむように細められる。

「あ、ありがとう、アル。……二人とも、本当に私に甘いんだから」

「当然です。貴女はこの店の、そして私たちのすべてなのですから」

 朝食を済ませ、一階の店舗へと下りる。磨き上げたカウンター、整然と並ぶ糸巻き、棚には昨日私が修復した人形たちが誇らしげに胸を張って座っている。全部、自分の手で整えた場所。自分の居場所だと、ちゃんと感じられる場所だ。

 看板を「OPEN」にひっくり返してから数分。店の呼び鈴が、カランコロンと涼やかな音を立てた。

 この店を再開してから、初めての外からのお客さまだ。

 入ってきたのは、つぎはぎの服を着た、小さな人間の女の子だった。彼女の両手には、何かの塊が大切そうに、けれど壊さないよう恐るおそる抱えられている。

「……あの、ここ、じょんさんのおみせ、ですか?」

 消え入りそうな声。私はカウンター越しに身を乗り出し、彼女の目線に合わせて微笑んだ。

「そうだよ。私は結衣。おじさんの跡を継いで、このお店を預かっているの。……どうしたの、その子?」

 女の子が差し出したのは、かつてはウサギだったと思われるぬいぐるみだった。長い耳の片方はちぎれ、中の綿は黒ずんで飛び出している。ボタンの目は片方なくなり、全体的に泥と涙の跡で汚れていた。

「……これ、お母さんが、死んじゃう前に作ってくれたの。でも、馬車に轢かれちゃって……街の人形屋さんに行ったら、『こんなボロ、捨てて新しいのを買いなよ』って言われちゃって……」

 女の子の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 その瞬間、私の横にいたウルの空気がピリリと変わった。

「捨てろ、だと? どこのどいつだ、そんな無神経なことを言ったのは」

「ウル、静かに。……お嬢さん、安心してください。我々の主様が、その子に再び命を吹き込んでさしあげます」

 アルが優しく女の子の背中を支える。私は、預かったそのウサギをそっと手のひらに乗せた。

 ――視えた。

 銀の針を持たずとも、今の私には分かる。このウサギの中に残っているのは、単なる魔力じゃない。母親が娘を想い、一針ずつ込めた、祈りにも似た愛の糸だ。それが今、断ち切られ、バラバラになり、震えている。

「大丈夫だよ。痛かったね。……結衣お姉ちゃんが、ちゃんとおうちに帰してあげるからね」

 私がそう呟いた瞬間、ボロボロのウサギが、微かに、本当に微かに温かくなった気がした。

 現実世界で「重い」と否定された私の技術。けれどこの子の涙を止めるためには、その重さこそが必要なのだ。

「ウル、アル。道具の準備を。……この子の『心』、繋ぎ直すよ」

 ジョンの人形店、本格始動。私の指先が、再び運命の糸を紡ぎ始める。


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