第五話 新しい世界の店主
未完成の巨大なテディベアの前に立った私は、迷いなく銀の針を構えた。
視界には、世界を繋ぎ止める無数の黄金の糸が、幾重にも重なり合いながら脈動しているのが見える。それは叔父がどうしても結びきれなかった、この世界の命運を左右する最後にして最大の『ほつれ』だった。
「ウル、アル。力を貸して!」
「はい、主様。お任せください!」
二人の返事が重なった瞬間、空気が震えた。
愛らしい少年の姿だった二人が、本来の姿――巨大な魔力を秘めた守護獣へと一瞬にして変貌を遂げる。黄金の炎を纏う獣となったウルが私の右を、蒼白の風を操るアルが私の左を固め、外敵を寄せ付けない強固な結界を張り巡らせた。
私はその守りの中で、すべての神経を、熱を帯びた指先へと集中させた。
(これが、私の本当にやりたかったこと。誰かの欠けた心を、一針ずつ丁寧に縫い合わせていくこと……!)
現実世界では「非効率」だと笑われ、「重すぎる」と疎まれた私の仕事の流儀。けれど今、この場所では、その妥協のない丁寧さこそが世界を救う唯一の力になっていた。
一目目。世界の東から流れる朝凪の糸を拾う。
二目目。西に沈む黄昏の糸と絡める。
三目目。かつて誰かが乱暴に引きちぎり、荒れ果てたままにされていた魔力の跡を、優しく、けれど確実にほどいてから結び直していく。
ほつれを見落とさない。感情に流されて急がない。ただひたすらに、素材である『世界』の声に耳を澄ませる。
――シュッ、シュッ。
静寂の中で、黄金の糸が空気を裂く小気味よい音だけが響く。空っぽだったテディベアの胸の穴が、柔らかな光のステッチで塞がれていく。
「信じられない……。あんなに複雑な絡まりを、迷いなく……」
周囲を取り囲んでいた守護人形の一体が、震える声で感嘆を漏らした。他の人形たちも、言葉を失い、固唾を呑んで私の手元を、奇跡の誕生を見守っている。
最後の一刺しを終え、祈るように糸を噛み切った。
その瞬間、庭中の梨の木が白く発光し、柔らかな光の粒が降り注いだ。光の渦の中に、懐かしい、あの叔父の幻影が浮かび上がる。
『よくやった、結衣。お前なら、この子に最高の「心」を与えてくれると信じていたよ』
「おじさん……っ!」
『この世界はもうお前のものだ。好きに描き、お前の愛した物語のように縫いなさい。……もうお前を「重い」と笑う奴はいない。お前はもう、一人じゃないんだからな』
叔父は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、満足げに頷くと、風に溶けるように光の中へと消えていった。
それと同時に、庭を埋め尽くしていた守護人形たちが、一斉に私に向かって深く膝を突き、頭を下げた。
「「「新たな主様に、永遠の忠誠を捧げます」」」
◇
数日後。
『ジョンの人形店』は、かつてないほどの活気と温かな魔力に満ち溢れていた。
店の入り口では、銀色の騎士人形が陽光を浴びて輝きながら、律儀に門番を務めている。店内では、相変わらずウルとアルが私の両隣を巡って騒がしい。
「主様、今日のおやつは僕が一生懸命作った蜂蜜たっぷりのパンケーキですよ! さあ、あーんして!」
「ウル、汚い手で結衣様に触らないでください。教育に悪い。……結衣様、甘やかしは後回しです。こちらにサインを。貴女の噂を聞きつけた依頼人からの手紙が、もう山積みですよ」
目が回るほど忙しくて、耳が痛くなるほど騒がしくて。
そして、とびきり甘くて、温かい毎日。
私はカウンターに座り、新しいテディベアの耳に針を通しながら、ふふっと幸せを噛み締めて笑った。
「……ねえ、二人とも。私、このお店が――この世界が、大好きだよ」
ウルがぱっと顔を輝かせ、大きな尻尾(あるいはその残像)を振るように喜ぶ。アルが眼鏡の奥の瞳を優しく細め、私の手元を愛おしそうに見つめる。
「僕も、主様のことが世界で一番大好きです! 主様がいるここが、僕の居場所だから!」
「私も同感です、結衣様。貴女が笑っているこの場所が、今や僕たちの世界の全てなのですから」
窓の外には、今日も魔法の綿が雪のように、あるいは祝福のようにふわふわと舞っている。
冷たいブラック工房で、誰にも気づかれず泣いていた私は、もうどこにもいない。
ここは、私が作る、私とみんなのための――最高の物語の中なのだから。
(第一章 完)




