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第五十話(最終回) 世界を繋ぐ、一筋の糸


 ――カシャン。

 静かな店内に、ハサミが布を切る小気味よい音が響く。

 あの大戦から、ちょうど一年。

 季節が一周し、王都にはまた、私がこの世界にやってきた時と同じ柔らかな春の風が吹き抜けている。石畳の隙間から顔を出す雑草に、小さな白い花が咲いていた。踏まれても踏まれても咲く、ひどく丈夫な花だ。叔父が好きそうだな、と思った。

「主様、こっちの棚の整理終わりました! 次は裏庭の薬草の収穫に行ってきてもいいですか?」

 元気よく声をかけてきたのはウルだ。この一年で少しだけ肩幅がしっかりとした気がするけれど、蜂蜜色の瞳の輝きと、私に向ける真っ直ぐな笑顔は変わらない。以前のように私にべったりと依存するのではなく、今は「店を活気づけるムードメーカー」としての自覚を持って動いてくれている。

「ウル、慌てないでください。収穫の前に、昨日届いたボタンの検品が先です。……主様、こちらが今月の収支報告です。レオネルさんの道場からの修繕依頼が増えたおかげで、新しいミシンの導入も検討できそうですよ」

 アルが手帳を片手に、冷静に、けれど口角をわずかに上げて報告してくる。彼はこの一年で、私の魔法に頼らない「現実的な経営」を支える最高の知恵袋へと成長した。以前の「閉じ込める愛」が、今は「支える力」に変わっている。それがアルなりの、一年分の成長の形だった。

「……ねえ、結衣。これ、飾っておいて。店に、色が足りないから」

 ノアが不器用な手つきで、庭に咲いた春の花を花瓶に生けて持ってきた。かつての「痛みの器」としての影は消え、彼は今、この店という居場所に自分の「好き」を見つけようとしている。花を摘んで花瓶に挿す、ただそれだけのことを、ノアはとても真剣にやっていた。その真剣さが、私にはたまらなく愛おしかった。

「みんな、ありがとう。……本当、頼りになるわね」

 私は彼らに微笑みかけ、淹れたてのお茶を一口啜った。

 今の私には、世界を一度に縫い直す神の魔法はない。指先は疲れやすく、一日の終わりには針を持つ手が震えることもある。けれど、一針一針に心を込め、誰かのために布を繋ぎ合わせるこの「不自由な日常」が、何よりも愛おしかった。ブラック工房で泣いていたあの頃の私が、これを聞いたらどんな顔をするだろう。

 ふと窓の外を見ると、道場の指導を終えたらしいレオネルが、門下生に囲まれながらこちらを振り返り、小さく会釈したのが見えた。その笑顔は、銀の甲冑を脱いだ彼の、騎士でも守護者でもない、ただ一人の隣人としての顔だった。その視線の端を、風のようにどこかへ去っていったルカの、悪戯っぽい笑い声が掠めたような気がした。どこかで誰かの糸を切りながら、元気にやっているだろうか。

 私たちは、不完全なままだ。叔父ジョンが手紙に記した通り、私たちはぶつかり合い、綻びを露呈させながら、それでも互いを補い合って生きている。ウルはまだ感情が先走りすぎるし、アルはまだ少し過保護だし、ノアは自分の感情の扱い方を学んでいる最中だ。

 それでいい。不完全だから、まだ伸びしろがある。縫い目が粗いから、修繕のしがいがある。

 私はカウンターに戻り、新しい仕事に取りかかろうとした。その時、外から手紙が届いた。

 見慣れない封蝋。遠くの国の紋章が刻まれている。送り主の名前を見て、私は少しだけ首を傾けた。知らない名前だ。でも、手紙の文面は短く、真剣だった。

『聖針職人の貴女に、お力をお借りしたいのです。私の国に、誰にも縫えない「綻び」があります。どうかお越しいただけませんか』

 私はその手紙を、三人に差し出した。

「ねえ、みんな。新しい依頼が来たわ」

 ウルがまず飛びついて、目を輝かせる。アルが静かに立ち上がり、眼鏡を押し上げて「内容を確認させてください」と手を伸ばす。ノアが腕を組んで「どんな綻びだ」と呟く。

 私は銀の針を手に取った。橙色の光が、その芯の奥で静かに脈打っている。神の力はない。でも、この針には、私がこれまで縫い合わせてきた人々の温もりが染み込んでいる。それが、私の唯一の、そして最強の道具だ。

 どこかで今も、誰かが綻んでいる。傷ついたぬいぐるみを抱えた子どもが、誰かに「捨てなよ」と言われて泣いている。壊れかけた人形を持って、どこへ行けばいいかわからずに立ちすくんでいる。そういう人のそばに、私の針が届けばいい。

 ブラック工房で「重い」と笑われた一針一針が、今日も誰かの心を繋ぎ止める。

「さあ、仕事よ」

 私の言葉に、三人が力強く頷いた。陽のウル。静のアル。痛みのノア。それぞれに傷を持ち、それぞれに欠けているものを持つ、愛すべき不完全な者たち。

 店の軒先に、私が縫い上げた旗が揺れている。蜂蜜色と蒼と漆黒の、三色のパッチワークに、銀とパステルの糸が縫い込まれた旗。五人分の色が混ざり合った、世界にたった一枚の旗だ。

 壊れかけた世界を、私たちはこれからも縫い直していく。完璧な救世主としてではなく、愛すべき綻びを抱えた、不完全な仲間たちと共に。叔父が願った通り、ただの泣き虫で、自分のために怒れる、普通の女の子として。

 銀の針が、橙色に輝いている。朝日の中で、その光はどこまでも温かかった。

 私たちのパッチワークのような物語は、これからも、一歩ずつ、一針ずつ、続いていく。


(第十章 完)


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