第四十七話 ルカの旅立ちと、ノアの居場所
人形店の片付けが一段落した午後。窓を開けると、王都の喧騒が心地よい風に乗って入り込んできた。通りの向こうで誰かが笑い声を上げ、荷馬車の車輪がガタガタと石畳を鳴らしている。あの銀の静寂が嘘のように、街は賑やかさを取り戻していた。
そんな中、ルカがカウンターに腰掛け、愛用のハサミを無造作に放り投げて受け取る遊びを繰り返していた。
「さてと。退屈な平和が戻ってきたし、僕はそろそろお暇しようかな」
その言葉に、雑巾を絞っていたウルの手が止まる。
「……行くのか? ルカ」
「うん。僕はもともと、ジョンのじいさんに『綻びを切る』ために雇われてただけだしね。この街の大きな綻びは、結衣が綺麗に縫い直しちゃったでしょ? なら、僕のハサミを必要としてる場所は、もうここにはないんだ」
ルカは軽やかに床へ飛び降りると、私の前でわざとらしくお辞儀をした。パステルカラーのカーディガンが、風に揺れる。
「結衣、君の縫い目はもう解けないくらい丈夫になった。……でも、もしまた世界が窮屈になって、誰かを切り刻みたくなったら呼んでよ。いつでも駆けつけてあげるからさ」
「ありがとう、ルカ。……あなたのハサミがあったから、私は自分を縛っていた糸に気づけたわ」
ルカはニカッと不敵に笑うと、窓枠に飛び乗り、そのままひらりと街の雑踏へと消えていった。欠けたハサミがキラリと光り、それが見えなくなる最後まで、私は窓の外を眺めた。再会を約束する言葉はなかったけれど、あれほど自由な存在が、また会いに来てくれると信じている。そういう子だから。どこかで今も誰かの「固まった糸」を切り刻みながら、あの不敵な笑みを見せているのだろう。
ルカの去った静寂の中で、ノアがじっと自分の手を見つめていた。長い指を開いたり閉じたりしている。何かを探しているような、何かを確かめているような仕草だった。ウルは閉まった窓をしばらく眺めたあと、ため息をついた。アルはそっとカーテンを閉めた。それぞれの送り方が、それぞれらしかった。
彼は三体目のテディベアとして、私の「痛み」や「怒り」を肩代わりするために作られた。役割を終えた今、彼は自分の存在理由を見失っているように見えた。
「……僕は、どうすればいい? 痛みも怒りも、君は自分で持てるようになった。……ゴミ箱は、中身が空っぽになったら捨てられるだけだよね」
ノアの小さな声が、店内に響く。その声には、自嘲が混じっていた。長い時間を地下室で過ごした少年が、ようやく外に出てきて初めて覚えた「不安」の顔だった。
私はノアの元へ歩み寄り、その小さな、けれど温かい手を両手で包み込んだ。
私はノアの元へ歩み寄り、その小さな、けれど温かい手を両手で包み込んだ。長い指が、ほんの少しだけ震えた。
「捨てたりしないわ。……ノア、これまでは私のために苦しんでくれてありがとう。でも、これからは『役割』のためじゃなくて、あなたの『好き』のためにここにいてほしいの」
「僕の……好き?」
「ええ。何が食べたいか、どんな服を着たいか。……あなたの心が動く瞬間を、これから一緒に探していきたいの。ウルやアルと一緒に、この店を本当の『家』にしていきましょう?」
ノアの赤い瞳が、微かに揺れた。これまで「負」の感情しか知らなかった少年の心に、初めて自分自身の小さな「望み」が芽生えた瞬間だった。
「……じゃあ、僕、もっと柔らかいパジャマがいい。……あと、甘いジャムをたくさん塗ったパン」
「ふふ、いいわよ。最高に肌触りのいい生地で、私が縫ってあげる」
ウルの明るい笑い声と、アルの呆れたような吐息が重なる。ノアがこっそり口元を緩ませているのを、私はちゃんと見ていた。ルカは去ったけれど、私たちの「家族」の形は、より深く、より確かなものへと編み直されていた。欠けた場所があっても、それがまたパッチワークの一部になる。それが私たちのやり方だ。




