第四十五話 王都を縫い直す、暁の光
「鉄の聖女」の魔力炉が静かに停止し、王宮前広場を支配していた刺々しい静圧が霧散していった。
私の指先に残った銀の針は、折れることもなく、ただ夜明けの露を吸ったかのように淡く輝いている。折れなかった。最後まで折れなかった。叔父から受け継いだこの針が、今日も誰かの心を繋ぎ止めた。それだけで、十分だと思った。
「……終わった、のね」
膝をつきそうになった私の身体を、二つの温かい感触が支えた。
「主様、お疲れ様です! すごかった、今の『修復』! 鉄の聖女があんな顔するなんて思わなかったよ!」
蜂蜜色の髪を振り乱したウルが、子供のように私の肩に顔を埋める。その体温が、冷えていた私の腕から、ゆっくりと温もりを戻していく。
「……計算以上の結果です。主様、貴方は本当に、世界で唯一の職人だ」
アルが眼鏡を拭きながら、安堵したように深く息を吐いた。珍しく、声が少し震えていた。完璧に感情を管理するアルが、安堵で声を震わせている。それが、この戦いがどれほど危うかったかを物語っていた。
ふと空を見上げると、王都を網の目のように縛り付けていた銀色の糸が、ゆっくりと解け始めていた。けれど、それは消えてなくなるのではない。私の「祈り」を乗せた光の粒子となり、石畳に、建物に、縫い止められていた人々の心へと染み込んでいく。
恐怖で凍りついていた街に、少しずつ「音」が戻ってきた。赤ん坊の泣き声。遠くで響く安堵の怒号。窓を開けて朝日を仰ぐ人々の気配。私がかつて「神」として無理やり固定した平穏ではない。人々が自らの足で歩き出す、不完全で、騒がしい、本当の日常の始まりだった。
「陛下……いえ、元陛下は拘束した。近衛騎士団も、これ以上の戦闘意思はない」
レオネルが剣を鞘に収め、王宮のバルコニーを見上げて言った。彼の銀の甲冑は朝日を浴びて、新しい時代の幕開けを告げるように輝いている。国を守るために磨き続けた鎧が、今日ここで、本当の意味で「人を守るための鎧」になった。その事実が、彼の表情に静かな誇りを宿らせていた。
「あーあ、結局誰も死なないハッピーエンド? 僕のハサミ、出番少なすぎじゃない?」
ルカが不満げに唇を尖らせながらも、その手は優しく私の背中を一度だけ叩いた。
「でも、まあ……今の結衣の『縫い目』、悪くないよ。ジョンのじいさんも、これなら合格点出すんじゃない?」
そう言ってルカは横を向いた。珍しくその耳が、少し赤かった。
ノアが私の隣で、じっと自分の手を見つめていた。長い間、一人で地下室に閉じ込められていた少年の手。誰かを抱きしめたことがあったのだろうか。これからは、あるといいと思った。
「……痛いな。心を取り戻すって、こんなに胸がチクチクするんだ。……でも、悪くない」
ノアの言葉に、私は笑った。神様だった時には出なかった笑い声が、今の私の喉からちゃんと出てくる。ノアもまた、叔父が用意したパッチワークの一枚だ。私の怒りと悲しみを預かって、地下で長い時間を過ごした少年。これからは、地下じゃなくて、ここにいていい。
「ノア。……これから、一緒に来てくれる? あの店で、一緒に暮らしましょう」
ノアは一瞬、意表を突かれたような顔をした。それからゆっくりと視線を逸らし、ぼそっと言った。「……仕方ないな」。その耳が、ルカの耳と同じくらい赤かった。
◇
私は、朝日に染まる王都を見渡した。神の力は失われ、私はただの「裁縫師」に戻った。明日からはまた、一針一針、地道に布を縫う日々が始まるだろう。持ち込まれるのは、また誰かのボロボロのぬいぐるみかもしれない。壊れた人形の修復依頼が、また山積みになるかもしれない。でも今度は、一人じゃない。
ブラック工房で絶望していたあの頃の私に教えてあげたい。貴方の「重すぎる」こだわりは、欠点じゃない。貴方の指先の傷は、いつか誰かの心を救うための大切な証になるんだよ、と。そして、その道には、ちゃんと仲間がいるよ、と。
王都の通りで、縫い止められていた人々が、一人、また一人と動き出している。最初は恐る恐る、次第に大きく。子どもが駆け出し、老婆が膝をさする。商人が荷車を引き直し、騎士が鎧の埃を払う。誰もが、それぞれの「日常」を取り戻そうとしている。その光景が、今の私には、どんな奇跡よりも美しかった。
「……帰りましょう。私たちの、人形店へ」
私の言葉に、五人の守護者たちが力強く頷いた。陽のウル。静のアル。正義のレオネル。悪戯なルカ。痛みのノア。それぞれに傷を持ち、それぞれに欠けているものを持つ、愛すべき不完全な者たち。
壊れかけた世界を、私たちはこれからも縫い直していく。完璧な救世主としてではなく、愛すべき綻びを抱えた、不完全な仲間たちと共に。叔父が願った通り、ただの泣き虫で、自分のために怒れる、普通の女の子として。
銀の針が、橙色に輝いている。朝日の中で、その光はどこまでも温かかった。




