第三十七話 三体目のテディベア、目覚めの時
地下へと続く扉は、厚い鉄板と幾重もの封印術式で固く閉ざされていた。叔父ジョンが生前、「ここだけは開けてはならない」と厳命していた聖域。だが、今の結衣を救うには、その禁忌を犯す以外の道は残されていなかった。
「……僕たちの魔力では、この扉は開かない。主様を拒絶したあの概念の鎖と同じ匂いがする」
アルが冷や汗を流しながら、扉に触れた指を引き抜く。黄金の魔力が火花を散らし、彼の指先を灼いていた。叔父が施した封印は、守護者二人の力さえも弾いてしまう。
「どいて。僕のハサミは、『拒絶』を切るためにあるんだから」
ルカが前に出ると、欠けた刃を扉の隙間に差し込んだ。キィィィン、と鼓膜を劈くような金属音が響き、叔父の遺した強固な呪縛が、まるで古びた糸のように容易く解けていく。欠けたハサミだからこそ、この仕事ができるのだと、職人の血を引く結衣が見たならきっとそう言っただろう。
重い扉がゆっくりと開き、中から溢れ出したのは、光ではなく、底知れない「嘆き」の気配だった。どれほど長い時間、ここに閉じ込められていたのか。その孤独の濃度が、解き放たれた空気に染み込んでいた。
埃の積もった小部屋の奥。そこにあったのは、ウルやアルのような愛らしい姿ではない、漆黒の毛並みを持つ小さなテディベアだった。その瞳は赤く、まるで乾いた血のような光を宿している。縫い目は粗く、愛情よりも「必要性」で形を与えられたような、荒削りな存在感があった。ウルもアルも、職人の目で見れば「愛の結晶」として作られた人形だと分かる。だがこの黒いテディベアは違う。これは叔父が「愛したくて」ではなく「必要だから」作ったものだ。そのことが、この子の縫い目から伝わってくる。作られた理由ごと、全部正直に表れている。
「……これが、三体目?」
ウルが息を呑む。黒いテディベアの胸元には、結衣の銀の針と同じ、鈍い光を放つ魔力石が埋め込まれていた。ルカがその石をハサミの柄で軽く叩くと、黒い毛並みが揺らぎ、霧のように形を変えていく。
現れたのは、ウルやアルよりもさらに幼く見える、けれどその瞳に深い憎悪と悲しみを湛えた一人の少年だった。短く刈り込んだ黒髪に、赤みがかった瞳。全身の動きが鋭く、まるで一度も甘えたことがない者の佇まいがある。
「……遅いよ。……アイツが、壊れるまで放っておくなんて」
少年の声は、結衣のそれと酷似していた。低く、けれど振り絞るような切実さを帯びている。彼はフラフラと立ち上がると、動かない結衣の元へ歩み寄り、その琥珀色の頬を乱暴に、けれど愛おしそうに撫でた。
「僕は、ノア。……この女が捨ててきた『痛み』を食べるために作られた、ゴミ箱だ」
ノアと名乗った少年は、自分たちを射抜くような赤い瞳で見つめ返した。
「ウルが陽を司り、アルが静を守るんだろ。じゃあ僕は何かって? アイツがブラック工房で押し殺してきた怒り。誰にも聞いてもらえなかった悲しみ。何度傷つけられても諦めなかった意地。そういうもの全部を、アイツが笑顔でいるために、代わりに飲み込む役割だよ」
ノアは赤い瞳を細め、今度はウルとアルを交互に見つめた。
「今のアイツは、神様の魔力でパンパンになって、心がどっかに行っちゃってる。……僕の中に溜まった『毒』をアイツに戻さなきゃ、アイツは二度と笑わないよ。笑い方も、泣き方も、怒り方も、全部わからないまま。完璧な置き物のまま、この世界に固定されるだけだ」
ノアの言葉が、男たちの胸に重く沈んでいく。結衣を人間に戻すということは、彼女に再び「痛み」を与えるということ。叔父ジョンの残酷な、けれどあまりにも人間臭い設計思想の全貌が、今、明らかにされようとしていた。
レオネルは剣を握り直し、長い沈黙の後に口を開いた。その声は、いつもより低く、かすかに震えていた。騎士として百の命令を下してきた喉が、これほど重たく動く夜は、生まれて初めてかもしれなかった。
「……全員で、やるぞ」
男たちは互いの顔を見た。憎しみ合い、争い合い、それでも同じ場所に立っている者たちの顔を。レオネルが、ウルが、アルが、そしてルカが。互いに一言も言葉を交わさないまま、同じ頷きで答えた。この場に至って、誰の愛が正しいとか間違いとか、そんな話は意味を持たなかった。ただ、目の前で冷えていく彼女の指先に、もう一度「人間の熱」を取り戻させること。それだけが、この夜の仕事だった。




