第三十六話 暴走する「聖針」の余波
世界から、音が消えた。
正確には、あらゆる「動き」が、琥珀色に輝く無数の光の糸によって物理的に縫い止められていた。粉々に砕け散った窓硝子の破片は、地面に落ちることなく空中で静止している。襲いかかってきた王宮魔導兵たちの叫び顔も、振り上げられた剣の軌跡も、すべてが緻密な刺繍のように空間に固定されていた。まるで、世界そのものが誰かの作業台の上に並べられた「素材」になってしまったみたいに。それは救済という名の、圧倒的な拒絶だった。
「……ぁ……」
ウルの掠れた声が、唯一動くことを許されたこの人形店の中に、虚ろに響いた。彼は結衣を抱きしめた姿勢のまま、その腕の中にある「重み」に戦慄していた。先ほどまで彼女から溢れ出していた神々しいまでの魔力の拍動が、今は嘘のように消え失せている。蜂蜜色の髪が乱れ、頬には戦場の汚れが残っている。それでも彼の腕だけは、結衣を離さなかった。
静止した世界の中で、ウルだけが震えていた。魔導兵の剣の切っ先が宙に浮き、割れた床の埃が中空に漂っている。この世界を縫い止めたのは結衣の意志だ。それほどの力を、彼女は最後の一手として使い切った。守護者のはずの自分が何もできないまま、彼女にそこまでさせてしまった。その事実が、ウルの胸を焼き続けていた。
結衣の琥珀色の瞳からは、光が失われていた。開かれたままのその瞳は、もはや何も映していない。ただの美しい、けれど命の通わない魔力石へと成り果てていた。人形を縫い続けてきたその指先に、銀の針が刺さったままになっている。その針先からは、ドクドクと不気味な脈動が、弱く、弱く、伝わってくる。
「主様……嘘だ……目を開けてください……!」
ウルが必死に彼女の身体を揺さぶるが、結衣の身体は驚くほど冷たく、硬い。まるで、最初から精巧に作られた人形であったかのように。叔父・ジョンが百年かけて作り上げた守護者である自分が、こんなにも無力だという事実が、ウルの胸を食い荒らしていく。
「……バカだね。あれだけの概念干渉を、ただの人間がノーコストでできるわけないでしょ」
天井の梁に縫い付けられるのを免れたルカが、ふわりと着地した。彼のパステルカラーのカーディガンも、魔力の余波で端がボロボロに解けている。いつもの軽薄な笑みが、今夜だけは影を帯びていた。
ルカは結衣の指先に残る銀の針をじっと凝視し、その表情からいつもの余裕を消した。
「彼女は、自分という『個』の残り香を全部使い切って、この場を縫い合わせたんだ。……今の結衣は、魂の抜け殻。ただの装置だよ」
アルは、動かない指先を無理やり動かし、眼鏡のブリッジを押し上げた。凍りついた兵士たちが彫像のように静止する店内を、澄んだ蒼い瞳が冷静に見回す。だがその目の奥には、これまで見たことのない揺らぎがあった。
「……この針だ。この針が、主様の生命力を吸い上げ、代わりに世界の理を流し込んでいる。これを抜かなければ、彼女は本当に……」
「抜いたら、その瞬間に彼女は崩壊するよ。……今の彼女を繋ぎ止めているのは、その針だけなんだから」
ルカがハサミを構え、店の奥――かつて叔父ジョンが「決して入るな」と厳命していた、地下へと続く固く閉ざされた扉を指差した。
「ねえ。君たちが知らない『三体目』が、あそこで泣いてるよ。……ジョンのじいさんが残した、最低で最高の『予備パーツ』がさ」
レオネルが、甲冑の傷を軋ませて顔を上げた。地下書庫から這い出てきたこの騎士の顔には、禁書で見た文字の残像が貼り付いているようだった。彼の瞳が、扉を見つめる。叔父が「決して」と禁じたその扉を。地下書庫の禁書に記されていた「逆転の術式」の条件が、今、脳裏に甦ってきた。結衣が最も強く「生」に執着していた頃の遺物を用いて、彼女の精神世界に直接介入すること。その遺物の在り処を、自分はすでに知っている。
「……ジョンとは、どこまで用意周到な男だ」
「用意周到、じゃなくてさ」
ルカが、珍しく静かな声で言った。
「ただ、姪っ子が可愛すぎて心配で、死んでもなお手が離せなかっただけじゃないの?」
誰も何も言わなかった。冷え切った店内に、魔力で縫い止められた硝子の破片が、静止したまま浮かんでいる。結衣の指先から滲む微かな脈動だけが、彼女がまだどこかに存在している証だった。自分たちが守ってきたはずの人形店の地下に、まだ見ぬ真実が眠っている。結衣を「人間」に引き戻すための、最後の手がかりが。




