第三十二話 レオネルの独断、禁忌の「王宮地下室」へ
降り続く雨は、王宮の尖塔を冷たく濡らしていた。
レオネルは、濡れたマントを翻し、普段は立ち入ることのない北の離宮――そのさらに地下へと続く階段を下りていた。一段下りるごとに、松明の光が遠のき、空気が古い石と黴の匂いに変わっていく。靴底から伝わる冷気が、段を追うごとに深くなった。何十年も日の光が届いていない場所の、固有の重さがある。
「止まれ。これより先は国王陛下の直轄区域である」
行く手を阻むのは、かつての部下たちだ。だが、レオネルの瞳に宿る、氷のように冷徹な光に、守衛たちは思わず息を呑んだ。上官の「職務」の顔ではない。もっと個人的な、燃え上がるような執念を湛えた目だ。
「どけ。私は騎士団長として、国の『最終兵器』に関する資料を閲覧しに来ただけだ」
「しかし、団長……陛下からは、聖針職人の件は隠密裏に進めると――」
「陛下が望んでいるのは『神』の管理だろう。私が必要としているのは、彼女を壊さないための『知識』だ」
有無を言わせぬ威圧感で守衛を退け、レオネルは重厚な石造りの扉をこじ開けた。
そこは、歴代の聖針職人が、最後に辿り着いた「記録」が眠る禁忌の書庫。カビと古紙の匂いが立ち込める室内で、棚は天井まで古い文書と手記で埋め尽くされている。羊皮紙に書かれたものも、石板に刻まれたものも、ある。職人の名前を彫った墓碑まで、壁に嵌め込まれていた。何人もいたのだ。結衣と同じ道を辿った女たちが。これほどの記録がありながら、誰も彼女たちの末路を止めようとしなかったのだろうか。レオネルはその問いを噛み締めながら、一冊の、異様な気配を放つ手記を見つけ出した。
『……針を動かすたび、私の心は透明になっていく。世界を縫い合わせる代償は、私という個の消滅。最後には、名前さえも糸に溶け、私はただの理となるだろう』
手記に記された絶望的な予言に、レオネルは奥歯を噛み締めた。結衣が今、まさに辿っている道だ。彼女が琥珀色の瞳で自分を見つめ、「どなたですか」と問いかけたあの瞬間。あれは忘却ではなく、彼女自身が世界の「素材」へと還元され始めている兆候だったのだ。
「……こんな結末、認められるものか」
拳で石の棚を打つ。痛みが手の甲に走る。けれどその痛みが、今の自分には必要だった。人間としての感覚。あの少女が失いつつあるものを、この場所で自分だけが感じていることへの、理不尽な罪悪感。
レオネルは、手記の最後に綴られた「逆転の術式」に目を留めた。神になりかけた職人を人間へ引き戻す唯一の方法。それは、彼女が最も強く「生」に執着していた頃の、異世界の遺物――記憶の核となる「依代」を用いて、彼女の精神世界に直接介入すること。
「ルカの言っていたことは、真実だったというわけか……」
その時、背後の闇から冷ややかな声が響いた。
「団長。勝手な行動は、反逆とみなされますよ」
振り返ると、そこには国王の側近たちが、魔導兵を伴って立っていた。国はすでに、感情を失い「装置」となった結衣を、自分たちの道具として運用する計画を固めていた。レオネルがやろうとしている「彼女を人間に戻す行為」は、国にとっては最強の兵器を失うことに等しい。
その言葉が、薄暗い地下に低く反響した。自分が今、国というものの正体をはっきりと見ている。彼らにとって結衣は「救世主」でも「少女」でもなく、ただの「資源」だ。
「……反逆か。ならば、喜んでその汚名を被ろう」
レオネルは、禁書を懐に押し込むと、迷うことなく愛剣を抜き放った。銀色の甲冑が、魔法の灯りに照らされて鈍く光る。この剣は今まで、国のために、正義のために振るってきた。だが今夜からは、ただ一人の少女のために、すべてに反旗を翻すための剣だ。騎士としての生涯に、一本の傷を刻む夜だった。後悔はなかった。あの瞳に映る「どなたですか」という問いが、まだ胸の奥で燃えている。
「結衣殿……待っていてくれ。今度は私が、君の運命を切り開く」
地下書庫に、騎士の覚悟と剣の鳴る音が激しく交錯した。




