第三十話 初めての「綻び」、動き出す針
「……うるさいわ」
その呟きは、獣の咆哮や剣劇の火花、ルカの嘲笑が渦巻く狂乱の中に、冷たい楔のように打ち込まれた。
争っていた男たちが、一斉に動きを止める。
中心に立つ私は、感情の失せた琥珀色の瞳で、バラバラに壊れ始めた「ジョンの人形店」を見つめていた。叔父が大切にしていた棚が裂け、双子が手入れしていた床が刻まれ、レオネルの銀の甲冑から火花が散る。ルカが笑いながら宙に浮く。全部が「ノイズ」だ。全部が「綻び」だ。大切だったはずの場所が、ただの「素材」に見える。でも、その「素材」が傷つくのを見て、私の指先が、静かに、確かに、反応していた。
私の世界に、ノイズが走りすぎる。縫わなければならない。この五月蠅い「綻び」を。
「主様、危ない! 下がって……!」
「結衣殿、今助ける!」
ウルとレオネルが同時に手を伸ばした瞬間、私は無造作に右手を横に振った。
指先に挟んだ銀の針が、目にも止まらぬ速さで空中に「光の線」を描く。
――シュルル、と。
それは糸ではなかった。私の魔力が、空間そのものを縫い合わせる「概念の鎖」へと変質したものだ。記憶のない私が、本能だけで編み出した、人間では普通辿り着けない術式。
「なっ……身体が、動かない!?」
レオネルが驚愕に目を見開く。彼の銀の甲冑の継ぎ目に、いつの間にか目に見えない極細の光の糸が通され、背後の柱へと縫い付けられていた。甲冑の金属が、魔力の糸によって包まれ、一ミリも動かせない。
それだけではない。獣化したウルの四肢も、氷の術式を展開しようとしたアルの指先も、そして空中を浮遊していたルカのカーディガンの裾さえも。店内にいた全員が、蜘蛛の巣に捉えられた蝶のように、その場に縫い固められた。ルカだけが、少しだけ目を丸くして、感心したように口笛を吹いた。
「……主様……? 嘘だ、この術式……僕たちが教えたものじゃない」
アルが戦慄した声を出す。そう。これは双子から教わった魔術ではない。記憶を失い、世界の楔となった私が、本能だけで編み出した「神の裁縫」だ。そしてそれが、誰に向けられたものかも、今の私には関係ない。
「静かにして。……針が、通りません」
私はゆっくりと歩き出し、縫い止められた男たちの間を通り抜ける。レオネルの目の前で立ち止まると、彼の頬に伝う涙を、冷たい指先でそっと拭った。涙。これが何かを意味することは、わかる。ただ、その名前が、今はまだ出てこない。
「あなたは、私に『人間』に戻れと言いましたね。でも、人間はすぐ壊れる。悲鳴を上げて、綻んで、私を困らせる。……それでも、あなたはここへ来た。壊れながら、来た」
次に、愕然とする双子を振り返る。
「あなたたちは、私を『ここ』に閉じ込めると言った。でも、あなたたちの愛は重すぎて、私の世界の色を塗りつぶしてしまう。……それでも、あなたたちの温もりは、本物だったと思う」
最後に、面白そうに目を輝かせるルカを見つめる。縛られながらも、楽しそうにしている。この子だけが、私を怖がっていない。
「あなたは、私を『壊す』と言った。……でも、私を直せるのは、私だけよ」
私は手にした銀の針を、自分の左胸の前に掲げた。琥珀色の瞳に、一瞬だけ、鋭い職人の光が宿る。かつての「野中結衣」の残滓が、瞳の奥でひとつだけ、灯った。消えかけの蝋燭のように、小さく、けれど確かに。
「誰も、私を定義しないで。……私は、私が縫いたいものだけを縫うわ」
パチン、と私が指を鳴らすと、店を満たしていた光の糸が弾け、凄まじい衝撃波が男たちを外へと弾き飛ばした。窓が砕け、扉の残骸が吹き飛び、カーテンが宙を舞う。レオネルの悲鳴、ウルの怒号、アルの静かな呻き、ルカの笑い声が、一瞬で外の空気に混ざって消えていく。
静寂が戻った店内。私は一人、壊れた椅子に座り、再び針を動かし始める。カチ、リ。カチ、リ。同じリズム。けれど、その指先に宿る熱は、先ほどよりも少しだけ、温かくなっていた。弾き飛ばした男たちが、外でそれぞれの音を立てている。すぐにまた戻ってくるだろう。うるさい奴らだ。でも、そのうるさい音が、不思議と、嫌いではなかった。
これが、後編の始まり。守られるだけの少女はもういない。世界を、そして男たちの運命をその指先で支配する、「真の聖針職人」の誕生だった。
(第六章 完)




