第二十八話 壊れたハサミと、小悪魔の誘惑
「……離れろ。その汚い手で、主様に触れるな!」
アルの叫びと共に、室内の温度が氷点下まで急降下した。無数の氷の礫が、結衣の膝に座るルカを目掛けて放たれる。だが、ルカは避けるどころか、腰の欠けたハサミを無造作に、まるで紙でも切るように空間に対して滑らせた。
――ジャキンッ。
ただの金属音が響いた瞬間、放たれた魔術の軌道が文字通り「切断」され、氷の礫は結衣に届く前にただの水飛沫となって床に散った。鋭い冷気の余波が頬を撫でる。アルが眼鏡の奥の瞳を細め、見たことのない術への驚愕と、それを隠そうとする冷静さがせめぎ合っていた。
「無駄だよ、アル公。僕は君たちが主様に縫い付けた『執着の糸』を切るために生まれてきたんだから。ハサミはね、糸を切るためにある。どんなに丁寧に縫われた糸だって、刃を入れれば解けるんだ。……ねえ結衣、これ知ってたでしょ? 職人の常識だよね。縫うことと、切ることは、表と裏だって」
ルカは不敵に笑い、結衣の琥珀色の瞳を覗き込む。
「ねえ、結衣。この部屋、変だと思わない? 窓の外はいつも同じ角度の光。聞こえるのはこの二人の甘い声だけ。ご飯は毎回同じ蜂蜜の匂い。……まるで、時間が止まった標本箱だ。綺麗で、完璧で、何も生きていない。ねえ、今日が何日か、知ってる?」
結衣は、ぼんやりと自分の指先を見つめた。今日が何日か。……わからない。確かに、この部屋にいると心地が良い。何も考えず、ただ愛されているだけでいい。けれど、ルカがハサミを振るうたびに、鼻をつくような「焦げた魔力」の匂いと、どこか遠くで誰かが叫んでいるような幻聴が、頭の中に流れ込んでくる。日付がわからない。季節がわからない。それが「おかしいこと」だという認識が、今の私には薄かった。
「主様、惑わされてはいけません! その者は貴女を壊そうとしているだけだ!」
ウルが黄金の獣の腕を露わにし、床を蹴った。凄まじい衝撃波がルカを襲うが、ルカは結衣の肩にひらりと飛び乗ると、彼女の耳たぶを甘噛みするように囁いた。
「壊れるのが怖い? ……違うよね、結衣。君は、もう壊れてるんだ。この二人に、自分たちの都合のいいように繋ぎ合わされてさ。見てよ、自分の手を。君の指、震えてる。震えてるってことは、何かを感じてるってことだよ」
ルカがハサミの切っ先で、結衣の左手薬指にある「共有のステッチ」を軽く弾いた。途端に、黄金の糸が黒く変色し、結衣の脳裏に強烈なノイズが走る。
(……助けて、お姉ちゃん……!)
(……君を連れて逃げ延びられる……!)
(……どうか、人間でいてくれ……!)
知らないはずの、けれど胸が締め付けられるような人々の声。それは確かに、誰かが誰かを必死に呼んでいる声だ。遠くから、霧の向こうから、必死に手を伸ばしながら。誰もが、私に「戻ってきてほしい」と言っている。戻るべき場所があると言っている。
結衣の琥珀色の瞳が、微かに、けれど確実に揺れた。
「……あ、……あ」
結衣の唇が、震えながら音を紡ごうとする。その音に、色がついている。感情の色が。それを見た双子の顔から、血の気が引いた。自分たちが必死に消し去り、上書きしてきた「外の記憶」が、この小悪魔の一振りのせいで、綻び始めている。あれほど念入りに封じたはずの感情が、一本の糸を引っ張るだけで崩れてしまった。
「外にはね、君が救ったのに、君に忘れられて、それでも毎日店の前に立ってる騎士様がいるよ。……会いに行きたくない? 君の針で、彼の絶望を縫い止めてあげなよ。それが、君のやりたいことだったんでしょ? 誰かの綻びを、自分の手で修復すること」
ルカは結衣の手を引き、無理やり立ち上がらせた。立ち上がった拍子に、窓から外の風が一筋、私の頬を撫でた。カーテンを縫い付けた結界の隙間から入り込んだ、街の空気。そこには人の声と、焼きたてのパンの匂いと、それから――誰かが笑っている音が混ざっていた。
双子の殺気と、ルカの誘惑。完璧だったはずの「黄金の檻」に、修復不可能な亀裂が入った瞬間だった。




