第二十六話 琥珀の瞳と、黄金の檻
カチ、リ。
静寂に包まれた店内に、銀の針が布を貫く音だけが規則正しく響いている。カチ、リ。カチ、リ。一定のリズム。まるで時計の秒針のように、感情なく、ただ正確に刻まれる針目。それ以外の音は、この部屋には存在しない。
世界が救われてから、どのくらいが経ったのだろう。
窓の外は、かつて私が救ったはずの街並みが広がっているはずだった。けれど、重厚なベルベットのカーテンは固く閉ざされ、隙間から差し込むわずかな光さえ、アルが施した幾重もの結界によって「無機質な輝き」へと濾過されている。色が、ない。雑音が、ない。人の気配が、ない。ただ、私の銀の針が布を縫う音だけが、この完璧に密封された世界の中で響き続けていた。
「……主様、お疲れではありませんか? 蜂蜜をたっぷり入れたお茶を淹れましたよ」
背後から、温かい、けれどどこか粘りつくような声がした。振り向くと、そこには焦がしキャラメル色の髪を揺らしたウルが立っていた。彼は以前よりも少し背が伸びたようで、その笑顔には、無邪気さの裏に隠しきれない執着が滲んでいる。笑っている。いつも笑っている。日が変わっても、季節が変わっても、同じ笑顔で私を見ている。けれど、なぜかその笑顔を見るたびに、私の胸の奥の、感覚のなくなった場所が、かすかにひっかかれるような気がした。
「……ありがとう、ウル」
自分の声が、遠くから聞こえるような気がした。薄いガラス越しに、誰かが私の声を代わりに発しているような、奇妙な乖離感。その乖離感に、もう慣れてしまっている。
私は鏡を見る。そこに映っているのは、透き通るような白い肌と、濁りのない琥珀色の瞳を持つ、一人の少女。かつての私がどんな色の目をしていたのか。どんな風に笑い、どんなことで夜眠れなくなったのか。誰かの名前を呼んで走り回っていた頃の、あの足の裏の感覚。……不思議なほど、思い出せない。思い出そうとすると、まるで砂が指の隙間からこぼれ落ちていくように、記憶の輪郭が溶けていく。
覚えているのは、この指先に宿る「縫う」という本能だけだ。それだけが、私に残された確かなものだった。
「主様、その指。少し赤くなっています。……僕が、手入れしてあげますね」
アルが音もなく歩み寄り、私の手から銀の針を優しく取り上げた。彼は眼鏡の奥の鋭い瞳を細め、私の指先を愛おしそうに、けれど逃がさないように強く握りしめる。その手のひらの温度は、いつも一定だ。冷たくも熱くもない、完璧に調整された温度。誰かの手の温度がもっと違ったことを、かつて知っていた気がする。でも、それが誰の手だったのか、もうわからない。
「外はまだ、穢れた灰に満ちています。人々は貴女を『救世主』と呼び、その身を削り取ろうと群がってくる。……恐ろしい場所です。だから、ここから出てはいけませんよ」
「……そうなのね。外は、怖いのね」
私は、彼の言葉をそのまま受け入れる。疑問を持つための「感情の重さ」が、もう私の中に残っていないのかもしれなかった。否定する理由も、確かめに行く気力も、持ち方を忘れてしまった。
かつて、この店で誰かと笑いながらお茶を飲んだ記憶がある。誰かが私の名前を呼び、私の「人間らしさ」を愛してくれたような気がする。小さな女の子が差し出したウサギの、あのボロボロの感触。騎士の甲冑の、あの冷たく重い金属の匂い。誰かが泣きながら、それでも笑おうとしていた顔。……けれど、その記憶の断片に手を伸ばそうとすると、左手の共有ステッチがチクリと疼き、思考を黄金の霧の中に溶かしてしまう。
「そうです。主様には、僕たちだけがいればいい。……僕たちが、主様の記憶になり、主様の心になりますから」
ウルが私の膝に頭を預け、猫のように喉を鳴らす。アルは私の背後に回り、その白い首筋をなぞるように、新しい防護の術式を刻み込んでいく。術式が皮膚に触れるたびに、ほんの少しだけ視界が暗くなる。けれど、それは恐怖ではなく、眠りに落ちるような心地よさで、私の意識の輪郭を曖昧にしていく。
それは、至高の敬愛。同時に、逃げ出す隙間もないほどに完璧な「黄金の檻」。
私は、感情の消えた琥珀色の瞳で、動かなくなった時計の針を見つめていた。この閉ざされた平穏こそが、私の望んだ結末なのだと、誰かに言い聞かせながら。
その時。結界で守られているはずの窓の外から、カチ、カチ……と。金属が触れ合うような、軽快で不遜な音が聞こえてきた。
「……? 何か、聞こえるわ」
私が呟いた瞬間、ウルとアルの表情が、凍りつくような殺意に染まった。




