第二十五話 開戦、あるいは『世界の綻び』へ
王宮へと続く大通りは、もはや道としての形を成していなかった。
空に開いた巨大な亀裂から、漆黒の泥のような「影」が滝のように流れ落ち、街の建物を次々と飲み込んでいく。かつては活気ある市場だった広場も、子どもたちが遊んでいた噴水広場も、今は黒く濁った海の底のように沈んでいた。その中心で、かつて私が救ったはずの巨神アイギスが、異形の怪物へと成り果てていた。
白銀の装甲はひび割れ、そこから無数の黒い触手が噴き出している。あの日、私が温めた琥珀色の瞳は今、虚ろな漆黒に染まっている。
『……オオ……オオオオ……』
地響きのような唸り声が、私の魂を直接震わせる。あれは怒りではない。耐えがたい「綻び」の痛みに悶える、悲痛な叫びだ。同じ痛みを私は知っている。心臓を縫い止めてほしくて、けれど誰にも届かなくて、ただ凍えていた巨神の孤独を、私は確かに感じた。だからこそ、あの時針を通したのだ。
「主様、あんなのもう人形じゃない……世界のバグそのものだ!」
ウルが叫び、その姿を巨大な黄金の獅子へと変えた。彼の咆哮一閃、迫りくる影の群れが黄金の炎に包まれ、塵へと変わる。その炎の熱が、私の頬を焼く。これが、ウルの本当の姿。私のテディベアだったあの子の、本当の力だ。
「結衣様、道を作ります。貴女はただ、あの中央だけを見ていてください」
アルもまた、蒼白の翼を持つ巨大な鳥の姿へと解放される。彼の羽撃きが凍てつく嵐を呼び、影の動きを物理的に凍結させていく。大きな翼が広がるたびに、その下に守られた空間だけが、清潔な空気を保っていた。
二人の背に守られながら、私はアイギスの足元へと駆け抜けた。視界はもう、ほとんど色が残っていない。白と黒、そして二人が放つ魔力の光だけが、私の世界に残された最後の色彩だった。
けれど、その二色の光だけで十分だと、今の私には分かる。
「……ごめんね、アイギス。もう一度、痛いのを止めてあげる」
私は、自分の左手薬指のステッチを強く噛み切った。プツン、と弾ける音と共に、私の中に貯め込まれていた全魔力が、銀の針へと集束していく。それは黄金を超え、もはや白光となって周囲を焼き尽くすほどの輝きだった。ウルとアルが、同時に息を呑む音が聞こえた。
「私の存在を、糸にする。私の記憶を、芯にする。私の未来を、針にする……!」
私は空高く跳躍した。ウルとアルの魔力が、私を巨神の胸元へと押し上げる。二人の力が、私の体を風に乗せ、光の矢のように空を貫く。
アイギスの核――そこにある「世界の綻び」に、私は自らの体ごと突っ込んだ。
瞬間、頭の中が真っ白な光に塗りつぶされる。
日本の駅のホーム。深夜のコンビニ。おじさんの店の木漏れ日。ウルとアルと食べた甘いお菓子。あの女の子のウサギが初めて喋った声。銀色の騎士が初めて頭を下げた瞬間。裏庭の梨の木の下で泣いた夜。
それらすべての記憶が、凄まじい速度で針の穴を通り、巨大な「修復の糸」へと変換されていく。
(あぁ……消えていく。私が、私でなくなっていく……)
最後に残ったのは、二人の温もりだけだった。私はその温もりさえも「最後の一針」として、世界の中心に力強く突き立てた。
――ガツンッ!!
世界が激しく震動し、漆黒の影が霧散していく。アイギスの体が、私の放った白光のステッチによって、内側から完璧に縫い止められていく。街を覆っていた灰色の霧が晴れ、亀裂が塞がり、空に本当の青が戻ってくる。どこかで子どもの笑い声がする。噴水が再び水を噴き上げる音がする。
けれど、その光の中心に、私の姿はもうなかった。
「主様……? 主様!!」
ウルの悲鳴が響く。
巨神の足元に力なく横たわっていたのは、透き通るような白い髪と、感情を失った琥珀色の瞳を持つ、人形のように美しい「何か」だった。彼女の左手には、まだ黄金のステッチが刻まれている。けれど、その先に繋がっていたはずの「意志」は、いまやこの世界を支える楔となって、空の彼方へと消えていた。
「結衣様……嘘だ。貴女は、本当に……世界になってしまったのですか?」
アルがその「抜け殻」を抱きしめる。その腕の中に、かつて人間だった少女の体は、まるで精巧なぬいぐるみのように収まっていた。
街には歓声が上がり、人々は奇跡を祝って踊っている。空の青が戻ったことを喜んで、互いに抱き合っている。誰も知らない。この美しい箱庭を救った少女が、今、自分が誰なのかも、愛した二人が誰なのかも、思い出すことができずにいることを。
空から一房の魔法の綿が、静かに彼女の頬に落ちた。
その綿は、かつてと同じように白く輝いていた。
それは、物語の終わりであり、そして――
『記憶なき聖針職人』と、彼女を奪還しようとする『二人の守護者』の、真実の物語の始まりだった。
(前編 完)




