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第二十四話 審判の前夜(イヴ)


 嵐の前の静けさとは、このことを言うのだろうか。

 王宮から響いていた巨神の咆哮は止み、街を埋め尽くした影も、今は獲物を待つ獣のように息を潜めている。私たちは、もはや生活の場ではなく「戦場」への前線基地となった『ジョンの人形店』にいた。

 棚に並んでいた修復待ちのぬいぐるみたちは、セレスたちが避難先に連れて行った。空っぽになった店内で、ランプの灯りだけが私たちの影を長く壁に映し出している。カウンターの上の糸巻きも、壁に掛けられたハサミも、叔父の写真も。今夜ここへ戻ってくる保証は、どこにもなかった。

「……ウル、アル。こっちに来て」

 私は、叔父が愛用していた古い作業椅子の前に二人を座らせた。

「明日は、世界の綻びを縫い合わせる。……私が『私』という形を保っていられる、最後の仕事になると思う」

 ウルの肩が、びくりと震えた。彼はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げ、絞り出すように言った。いつも生き生きと揺れる蜂蜜色の髪が、今夜は静かだった。

「……わかってるよ、主様。だから、最後にお願いがあるんだ。……僕たちの体を、もう一度だけ、主様の針で『完成』させてほしい」

 アルが静かに頷き、眼鏡を外して私を見つめた。眼鏡を外したアルは、普段の冷静な仮面を外した時と同じだと、いつしか知っていた。今夜はもう、全部を見せてくれるつもりなのだろう。

「貴女が世界の一部になるのなら、我々もまた、その世界を支える強固な杭とならねばなりません。主様、我々を……貴女の最高傑作として、永遠に壊れないように縫い固めてください」

 私は震える手で、銀の針を構えた。これが最後のメンテナンス。私は自分の魂を削り、その欠片を糸として二人の芯に流し込んでいく。

 ――チクリ。

 ウルの胸元に針を通すと、彼の熱い鼓動が指先から伝わってきた。

「あ……ああ、あったかい。主様の命が、僕の中に流れてくる……。これでもう、主様がどこへ行っても、僕は独りじゃない」

 ウルの黄金の瞳が潤み、彼は私の膝に額を押し当てた。その温もりを、私の指先が記憶する。脳が忘れても、手が覚えている。職人の指先は、心より正直だから。

 次にアルの背中へ針を運ぶ。彼の冷徹な魔力が、私の針を受け入れ、より深く、より重い「楔」へと変質していく。

「……素晴らしい。貴女の意識が薄れても、この体の奥に刻まれたステッチが、我々に進むべき道を指し示してくれる。結衣様、貴女は永遠に、我々の唯一の王だ」

 三人を繋ぐ左手の共有ステッチが、眩いばかりの光を放ち始める。それは店の外まで漏れ出し、灰色の霧の中でひとつの灯台のように輝いた。

 メンテナンスが終わる頃、二人の姿は以前よりもさらに美しく、同時にこの世のものとは思えないほど禍々しい神々しさを纏っていた。ウルの黄金の瞳は以前より深く、アルの蒼い瞳は以前より静かだった。それはもう、私のテディベアでも、ただの守護者でもない。世界を支える意志を持った、二つの神話だった。

「……できたよ。これで、あなたたちは絶対に壊れない」

 私は、力尽きたように二人の腕の中に倒れ込んだ。意識の端々から、また少しずつ大切な何かが削り取られていく。自分が誰なのか、なぜここにいるのか。その「意味」はもう重要ではなかった。ただ、目の前の二人の体温だけが、私をこの世に繋ぎ止める唯一の錨だった。

 この店を選んだ理由。叔父の形見の針を握った朝。最初にウルとアルの顔を見た時の驚き。それらすべてが今、針と糸に変換され、二人の体の奥深くへと縫い込まれていく。記憶が消えても、私の「重さ」だけは、二人の中で永遠に生き続ける。

「主様、外の空気が変わりました。……『夜明け』が来ます」

 アルが静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。灰色の霧が晴れ、王宮の彼方から、すべてを無に帰すような漆黒の光が溢れ出す。巨神アイギスが、世界の綻びそのものとなって動き出したのだ。その咆哮が、店の窓ガラスを震わせた。

 レオネルが街の外れで部隊を立て直している。セレスが書庫の術式を起動している。あの少女が、ウサギを抱きしめて眠っている。みんなが、自分のできることを、自分の場所でやっている。それぞれの戦場で、それぞれの朝を待っている。

「いこう。……私たちの、最後の仕事を終わらせに」

 私は、叔父の形見であるエプロンをきつく締め直し、店を出た。振り返ることはない。私たちの歩む先に待っているのは、救済か、それとも永遠の忘却か。夜明けの光を背に、聖針職人と二人の守護者は、世界の終焉へと歩み出した。



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