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第二十三話 魔導司書セレス、あるいは救われた少女の祈り


 王宮へと続く一本道、立ち往生する私たちの前に、煤けた法衣を翻して一人の女性が駆け寄ってきた。王宮図書室の主、魔導司書のセレスだ。彼女の腕には、禁忌の術式が記されているという分厚い魔導書が抱えられていた。長い銀髪が乱れ、片方の眼鏡のレンズにひびが入っている。それでも彼女の目は、炎のように真剣だった。

「結衣殿、待ってください! 行ってはいけません……いえ、正確には『その覚悟』なしに行ってはならないのです」

 セレスの背後には、第一章でボロボロのウサギのぬいぐるみを直してあげたあの少女と、その母親の姿もあった。彼女たちは、暴徒と化した街の混乱を潜り抜け、私にある「真実」を届けるためにやってきたのだという。少女の両腕には、あのウサギが今も大切そうに抱かれていた。

「ジョンの……あなたの叔父様の遺した隠し書庫から、これを見つけました。聖針職人に伝わる、最後の一針についての記述です」

 セレスが開いたページには、緻密な刺繍の図案と共に、血のように赤い文字でこう記されていた。

『世界を修復する者は、自らを楔とせよ。その肉体を針に、その魂を糸に変え、世界の綻びに自らを縫い付けるとき、初めて永劫の平穏が訪れる』

「……自らを、縫い付ける?」

「そうです。アイギスの中に巣食う影は、この世界のシステムそのものが生み出した拒絶反応。それを消し去るには、結衣殿、あなた自身が『世界の部品』となって、その穴を塞ぐしかない。それは……あなたがこの世界から、個としての意識を失うことを意味します」

 セレスの声が震える。彼女は学者として、この記述が何を意味するかを誰よりも理解している。だから震えているのだ。

 傍らで聞いていた少女が、私のスカートをぎゅっと握りしめた。

「お姉ちゃん、いなくなっちゃうの? ……嫌だよ。お姉ちゃんが直してくれたウサギさん、まだ一緒にねんねしてるんだよ」

 少女の純粋な祈りが、私の胸を優しく、けれど残酷に突き刺す。このウサギを初めて見た時、私はこの子の涙を止めたくて、それだけを考えて針を動かした。あの一針が、今も彼女の隣で生きている。それだけで、十分だ。

「……セレスさん。教えてくれて、ありがとう」

 私は少女の頭をそっと撫で、彼女の目線に合わせて腰を落とした。

「大丈夫だよ。お姉ちゃんはね、いなくなるんじゃなくて、この世界の一部になるだけ。あなたがウサギさんと眠るとき、その枕元を流れる風や、窓から差し込む光の中に、私がいるようになるだけなの」

「主様……!」

 ウルの悲痛な叫びが響く。彼は私の前に立ち塞がり、泣きながら首を振った。その涙が、白い頬を伝って石畳に落ちる。こんなにも泣いているウルを、私は見たことがなかった。いつも陽だまりのような笑顔で甘える、あの子が。

「嫌だ! 世界なんてどうなったっていい。僕たちは、主様とあの店で、笑っていたいだけなんだ。神様になんて、ならないで!」

「ウル。……アル」

 私は、静かに寄り添うアルの瞳を見た。彼はすべてを悟ったような、けれど底知れない絶望を湛えた目で私を見つめ返している。その瞳の奥に、反論の言葉も、引き止める理由も、全部ちゃんと用意されていることが伝わった。けれど、アルは沈黙していた。

「アル。あなたは、私が『人間』のままでいて、この街が滅びるのを見ていたい?」

 一瞬の静寂。

「……いいえ。結衣様。貴女は、誰よりも優しく、誰よりも『重い』職人だ。……誰かを見捨てて生きることは、貴女を内側から殺すことと同義だと、分かっています」

 アルは膝をつき、私の手に自分の手を重ねた。その手は、かすかに震えていた。完璧な身のこなしのアルが、隠しきれない感情を指先に滲ませている。

「行きましょう。貴女が世界を縫うというのなら、我々はその針を導く指となりましょう。たとえ貴女が意識を失い、我々の名を呼べなくなっても……このステッチがある限り、私たちは貴女という『法』に従う影として、永遠に側にいます」

 セレスは涙を流しながら、私たちに道を譲った。少女の「お姉ちゃん!」という声が、背後から追いかけてくる。

 私は一度も振り返らなかった。振り返れば、せっかく研ぎ澄まされた「職人の心」が、また一人の寂しがり屋な少女に戻ってしまう気がしたから。ウサギを通じて繋がった、あの小さな手のぬくもりだけを、最後の記憶として胸の奥にしまい込んだ。

 空の向こう、アイギスの咆哮がより一層激しくなる。石畳が細かく震え、足元から恐怖が這い上がってくる。けれど不思議と、膝は震えなかった。いよいよ、最後の夜が始まろうとしていた。



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