第二十二話 騎士レオネルの決断と「王宮の陥落」
街を覆う灰色の霧を切り裂き、一騎の馬が駆けてくる。
銀の甲冑は返り血と黒い泥に汚れ、かつて謁見の間で見た時のような威風堂々とした姿はどこにもない。近衛騎士団長、レオネル。彼は馬を乗り捨てると、愛剣を杖代わりに私の前で膝をついた。息が上がっている。甲冑の継ぎ目から黒い煙が漏れ出し、戦場がどれほどの凄惨さだったかを物語っていた。
「結衣殿……無事であったか。店が影に呑まれていないか案じていた」
「レオネル様! 王宮はどうなったんですか? あの、アイギスは……」
私の問いに、レオネルは苦渋に満ちた表情で顔を伏せた。
「……陥落した。陛下は避難させたが、アイギスが……君が呼び覚ましたあの守護神が、今は逆巻く影の核となっている。あれはもう、国を守る盾ではない。すべてを押し潰す絶望の槌だ。私の部下が十二人、あの足元に……」
レオネルは言葉を切り、奥歯を噛みしめた。その沈黙が、言葉以上の重みを持って私の胸に響く。
背後で、アルが鋭い視線をレオネルに向けた。
「……アイギスの再起動は完璧だったはずです。結衣様の針に落ち度はなかった。それを歪めたのは、この世界に満ちた負の魔力だ」
「分かっている! だからこそ……」
レオネルが顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、恐怖ではなく、言いようのない哀れみが宿っていた。上官が、取り返しのつかない過ちに気づいた部下を見る時の、あの目だ。
「結衣殿、君の目は……一体どうしたというのだ。その琥珀色の光は、もはや人のそれではない。君の指先から溢れる魔力も、以前の温かさとは違う。あの祝宴の夜に見た、人なつっこい職人の娘の面影が、今の君にはまるでない。まるで、この世のものではない何かに、中身を書き換えられているようだ」
私は無意識に、左手のステッチを隠すように握りしめた。
「……私は、大丈夫です。ただ、職人として、やらなきゃいけないことが増えただけで」
「嘘だ! 街の司書が禁書から見つけ出した記述がある。『聖針職人が世界の綻びを縫い合わせる時、その者は自らの人間性を糸として差し出し、最後には意志を持たぬ世界の部品となる』と。結衣殿、君は消えようとしているのではないか?」
レオネルの叫びが、冷え切った空気に響き渡る。彼は剣を鞘に収め、私の両肩を強く掴んだ。その力は、騎士の訓練で鍛え上げた強固さというより、縋るような切実さを帯びていた。
「逃げるんだ。今ならまだ、君を連れて北の聖域へ逃げ延びられる。アイギスを、この国を捨てても構わない。君が『君』でなくなる前に……私は、ただの一人の女性として、君を守りたいんだ」
その言葉の奥に、職人に対する敬意以上の、個人的な情愛が混じっていることに気づいてしまった。彼はいつから、私のことを「聖針職人」ではなく「結衣」という一人の人間として見ていたのだろう。そのことは、素直に嬉しかった。
けれど、今の私の胸に去来したのは、かつてのような「選ばれた喜び」ではなく、凪のような静かな拒絶だった。
「……ありがとうございます、レオネル様。でも、私は逃げません」
私はレオネルの手を、優しく、けれど拒絶の意志を込めて解いた。
「私が縫ったものは、私の命と同じです。アイギスが泣いているなら、私はもう一度そこへ行って、その涙を縫い止めなきゃいけない。職人が自分の作品を見捨てて逃げるなんて、私にはできない。それをした瞬間、私は本当に、私でなくなってしまうから」
「結衣殿……!」
「それに、私にはもう、戻る場所なんてないんです。……記憶も、心も、もう半分以上、この子たちとこの針に預けてしまいましたから」
私の隣で、ウルが低く唸り、アルがレオネルを遮るように一歩前に出る。レオネルは愕然としたまま、私と双子の異様な「絆」を見つめていた。それは、人間が入り込む余地のない、完成された共依存の円環。彼の哀れみが、今度は私ではなく二人へと向いているのを、私は静かに感じ取っていた。
「……王宮へ向かいます。アイギスの中に巣食う影を、私が引き受けてきます」
私はレオネルの横を通り過ぎ、灰色の空の向こうで咆哮を上げる白銀の巨人を見上げた。もはや、一人の少女としての幸福なんて、針の穴を通るほども残っていない。けれど、職人としての私は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冷徹な勝利を確信していた。あの巨神が泣いているのが、また聞こえる。
「……レオネル様。もし生きて戻れたら、その時はちゃんとお礼を言わせてください」
私は振り返らなかった。振り返れば、また泣いてしまいそうだったから。




