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第二十一話 色褪せる世界と「影」の軍勢



 その異変は、静かに、けれど決定的な絶望を伴って街を浸食し始めた。

「……ねえ、アル。今日の空、なんだか白っぽくない?」

 店の窓から外を眺めていた私は、ふと違和感を口にした。昨日まで鮮やかな青を湛えていた空が、まるで古い写真のように色褪せている。それだけではない。通りに咲く花も、人々の服の色も、彩度が一段階落ちたかのように、くすんで見えた。通りを歩く商人が声高に呼び込みをしている。その声は確かに聞こえる。けれど、絵の具を水で溶かしすぎたような光景の中で、その声は遠く、薄く、現実感を欠いていた。

「主様、それは外のせいではありません。……貴女の『認識』から、色が抜け落ち始めているのです」

 アルが背後から私を抱き寄せ、冷たい指先で私の瞼を優しく撫でた。その手の温もりだけが、今の私にとって唯一、確かな質感を持っていた。

 共有した薬指のステッチが、ドクドクと警鐘を鳴らすように脈打っている。私の人間としての記憶が消えるたび、世界はその鮮やかさを失い、無機質な「素材」へと還元されていくのだ。

 その時、街のあちこちで悲鳴が上がった。

「助けてくれ! 人形が……俺の相棒が、急に暴れ出したんだ!」

「やめて! 来ないで!」

 窓の下を見ると、かつて私が心を込めて直したはずのぬいぐるみや人形たちが、どす黒い魔力の霧を纏って持ち主に牙を剥いていた。彼らの愛らしい瞳は濁り、関節からは無理やり引きちぎられたような黒い糸が、触手のように蠢いている。あの時、私が確かに感じた「この子たちの心」はどこへ行ったのか。笑顔で抱きしめる持ち主の温もりを知っているはずの彼らが、なぜ同じ手を引き裂こうとしているのか。

「そんな……。私、あの子たちを幸せにするために縫ったのに。どうして!?」

「主様、見て。空から降ってる綿……色が変だよ」

 ウルが窓を開け放ち、外に手を伸ばした。かつてキラキラと輝いていた魔法の綿が、今は煤のように黒く汚れ、粘り気を持って街に降り注いでいる。光を反射していたあの白銀の輝きは跡形もなく、それはまるで空そのものが腐敗しているかのようだった。

「……ギルドの生き残りと、裏庭の影が手を組んだようですね」

 アルが鋭い視線で空の亀裂を見つめた。その亀裂は細いながら、確かに存在していた。ちょうど、繕いを怠った布地がほつれ口から裂けていくように。

「貴女がアイギスを救い、世界のシステムを書き換えたことで、溜まっていた『歪み』が形を成した。ギルドの生き残りが持ち込んだ呪いの糸が、裏庭の影と共鳴し増幅している。彼らは貴女が直した人形の『愛』を反転させ、呪いに変えているんです」

 自分の指先を見る。震えが止まらない。私が一針ずつ、祈るように込めた想いが、誰かを傷つける刃に変わっている。その事実が、私の職人としての魂を内側から切り刻んでいく。ブラック工房で「重い」と切り捨てられてきた私の技術が、この世界に来て初めて誰かの笑顔に変わった。それが今、同じ笑顔を奪う凶器になっている。

「私のせいだ……。私が、余計なことをしたから。私が『重い』魔法なんて使ったから……!」

 崩れ落ちそうになる私の肩を、ウルが力強く掴んだ。

「違うよ、主様! 顔を上げて!」

 ウルの声は、いつもの甘さを脱ぎ捨て、熱い鉄のように私の耳に刻まれた。

「あの黒い糸の下で、あの子たちは今も泣いてる。主様に助けてほしくて、必死に抵抗してるんだよ! 主様の針で縫われた心は、あんな薄汚い影ごときで塗り替えられるほど、安いもんじゃない。僕たちが一番よく知ってる。……あんな嘘っぱちの呪い、僕たちが全部焼き払ってあげる。だから、主様は『本当の姿』をあの子たちに思い出させてあげて!」

 ウルの黄金の瞳が、かつてないほどの熱を持って私を射抜いた。その言葉に嘘はない。この子は、私の仕事を誰よりも近くで見てきた。一針ごとに籠めた祈りを、指先の温度で知っている。

「……そうだね。ごめん、もう迷わない」

 私は銀の針を構えた。視界から色が消えていくなら、私の魔力で、この世界を塗り替えればいい。人間としての私がいなくなるなら、聖針職人としての私が、新しい世界を縫い上げればいい。

「ウル、アル! 道を開けて。……あの子たちの呪い、一針残らず解いてあげる!」

 店を飛び出した私の背後で、ウルとアルが本来の守護獣としての咆哮を上げた。石畳が震え、空気が振動する。色を失いゆく世界の中で、私たちの共有する黄金のステッチだけが、唯一の「真実」として眩い光を放ち始めた。その光に、暴走していた人形たちが一瞬だけ動きを止めた。まるで、長い悪夢の中で、かすかに正気の灯が揺れるように。



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