第二十話 新しい約束、刻まれるステッチ
貯蔵庫から戻った私の周囲には、浄化された魔法の綿が雪のように降り積もっていた。
影は去り、裏庭には再び静寂が訪れた。ただ、以前のようにクリスタルの花が光を弾く艶やかな美しさは戻らず、代わりに透き通った青白い月光のような、静謐で清潔な空気だけが漂っていた。まるで、嵐が去った後の浜辺のように。傷ついているけれど、確かにまだ、生きている庭。
私の心の中にあった「日本の風景」は、もう霧の向こう側へと消えてしまった。母の顔も、あの狭いアパートの匂いも、今はもう、古い物語の一節を読んでいるような遠い感覚でしかない。思い出そうとすると、砂が手の隙間からこぼれ落ちていくような、あの虚しい感触だけが残る。
「……主様。大丈夫ですか? 僕のことが、誰だか分かりますか?」
ウルが、今にも泣き出しそうな顔で私の服の裾を握りしめている。いつもは自信に満ちた黄金の瞳が、子どものようにゆれていた。こんなウルを、私はまだ見たことがなかった。
私はゆっくりと、自分の手を見た。指先は以前よりも白く透き通り、爪の先には淡い真珠のような光が宿っている。人間としての実感が薄れる代わりに、私は「聖針職人」という純粋な存在へ、少しずつ作り変えられてしまっている。老人が言っていた「神の視点」とは、こういう感覚のことなのかもしれない。
「大丈夫だよ、ウル。……あなたの名前も、アルの冷たい手の感触も、ちゃんと覚えてる。たとえ脳が忘れても、この指先が覚えているから。職人の手は、心より正直なんだ」
私は二人の前に膝をつき、自らの銀の針を取り出した。
これが、私が見つけた答え。
記憶が零れ落ちるなら、零れる隙間がないほどに、新しい絆をこの体に「直接」縫い付けてしまえばいい。脳ではなく、魂に。思い出ではなく、体温に。過去ではなく、指先の感覚に。
「ウル、アル。……左手を出して」
二人は戸惑いながらも、私に手を差し出した。
私は自分の左手薬指の付け根に、銀の針をそっと刺した。痛みはない。ただ、魔力が脈打つように熱く広がるのを感じる。そのまま、ウルの、そしてアルの同じ場所に針を通し、三人の魂を一本の黄金の糸で繋ぎ合わせた。針が肌を縫うたびに、三人の間を流れる魔力がひとつに混ざり合い、共鳴し始める。
「なっ……主様、これは……!」
「『共有のステッチ』。……これから先、もし私が何かを忘れて迷いそうになったら、この糸を辿って私を引き戻して。私の記憶が消えても、二人が覚えている『私』が、この糸を通じて私の芯を作ってくれるはずだから。私は二人の記憶の中に生き続ける。それが、私たち三人だけの答え」
それは、職人が自分自身に施す、禁忌の術式だった。三人の指先に、お揃いの黄金のステッチが刻まれる。赤い糸ではなく、黄金の縫い目。血よりも深く、言葉よりも誠実な、職人の誓約。それは肌の一部となり、二度と解けることはない。
「……主様。貴女は本当に、恐ろしい人だ」
アルが、震える指先でそのステッチをゆっくりとなぞり、狂おしげに目を細めた。眼鏡の奥の瞳が、今まで見たことがないほど剥き出しの感情で揺れている。
「自分自身を素材にして、我々を永遠に縛り付けるなんて。……これでは、もう死が分かつことさえ許されない。貴女は我々を、完全に逃げ場のない場所へ閉じ込めた」
「いいよ、それで。……私、おじさんのように独りで消えたくないもん。二人が私の重石になってくれるなら、私はどこまででも高みへ行ける気がするの。落ちそうになったら、この糸が引き止めてくれるから」
ウルの瞳に、溜まっていた涙がついに零れ落ちた。彼は泣きながら、けれど笑いながら、私の手をぎゅっと握りしめた。
「……大好きだよ、主様。忘れてもいいよ、僕たちが何億回でも、主様の名前を呼んであげる。主様が自分を忘れても、僕たちが世界で一番、主様のことを知ってる存在でいてあげるから」
二人の腕が、私を左右から強く抱きしめる。以前よりも少し重くなったその温もりの中に、私は確かな「現在」を感じた。
過去を失い、人間を辞めつつある私。けれど、この歪で美しい箱庭の中で、私はかつてないほど「必要とされている」実感に満たされていた。
ふと、窓の外を見た。浄化された裏庭の端に、新しい一輪の花が咲いていた。それは日本のどんな花とも違う、熱を帯びた黄金の花弁を持つ花。私たちの絆が、この土地に根を張った証だった。
「……さあ、お店を開けよう。今日からは、もっとすごい仕事ができる気がするんだ」
私の瞳は、もう完全に琥珀色の魔力石へと変わっていた。けれどその瞳に映る二人の姿は、これまでのどんな景色よりも鮮やかに、私の魂に刻まれていた。失われた記憶の代わりに、私はここに、三人分の未来を縫い込んだのだから。
(第四章 完)




