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第十九話 失われた記憶の「結晶」を探して


 裏庭の空気は、もはや甘い梨の香りなど微塵も残っていなかった。

 足元を這い回る黒い影の蔓が、私の編み上げた銀糸の結界をミリ単位で侵食し、ギチギチと嫌な音を立てている。かつてクリスタルの花が絨毯のように広がっていた地面は、今や黒い泥炭のように変色し、踏み込むたびに足元から冷気が這い上がってきた。

「主様、これ以上先は……『世界の裏側』に繋がりすぎています。叔父様でさえ、一年に一度しか立ち入らなかった場所だ」

 アルが私の前に立ち、蒼白の風を纏った剣を構える。その背中は、メンテナンスを経てより強固な魔力を宿していたけれど、どこか悲痛な気配を漂わせていた。

「でも、行かなきゃ。私の心の中から、お母さんの顔や、日本の空の色が、どんどん砂みたいに零れ落ちていくのが分かるの。……全部消えちゃう前に、繋ぎ止めなきゃいけないんだよ」

 私は銀の針を強く握りしめた。庭の最奥、巨大な梨の木の根元に隠された石造りの扉。そこが、叔父・ジョンが思い出を封印したという『記憶の貯蔵庫』だ。ウルが黄金の炎で影を薙ぎ払いながら先を行き、アルが私の背中を守りながら後に続く。三人は無言で、枯れ果てた庭の中を進んだ。

 扉を開けた瞬間、眩いばかりの光の粒が私たちを包み込んだ。

 そこには、無数の小さなガラス瓶が棚に並んでいた。瓶の中には、揺らめく炎のようなものや、静かに降る雪のようなもの、子どもの笑い声の形をした光のようなもの……叔父がこれまでの人生で「職人の代償」として差し出してきた、かけがえのない記憶の断片が、結晶となって収められていた。どれもこれも、尊くて、壊れそうで、二度と取り戻せないもの。

『――愚かな。その結晶に触れれば、お前は二度と「ただの人間」には戻れんぞ』

 背後から、あの義眼の老人の声が響いた。影が実体化し、貯蔵庫の入り口を塞ぐ。黒い霧が巨大な鋏の形を成し、私の魂と体を繋ぐ命の糸を切り裂こうと、音もなく滑り込んでくる。

「主様、下がって! ここは僕が……!」

 ウルが黄金の炎を吹き上げ、影の鋏を押し戻す。けれど影は私の「喪失感」を糧に、切れば切るほど膨れ上がっていく。アルの蒼白の剣が弧を描くたびに、影は霧散しては新しい形で凝固し、貯蔵庫の内壁を漆黒に塗り替えていく。

(……怖い。忘れるのが、怖い。でも、もっと怖いのは――)

 私は、棚の隅に置かれた、まだ何も入っていない空の瓶を見つめた。そこには私の名前、「結衣」と刻まれていた。叔父は知っていたのだ。いつか私がここに来て、自分の大切なものを差し出す日が来ることを。だから最初から、私の名前を彫った空の器を用意して、待っていたのだ。

「……怖くないよ。私は、もう独りじゃないもん」

 私は、自分の胸の奥に残っている「痛み」を、あえて引きずり出した。ブラック工房で否定され続けた悲しみ。誰にも必要とされなかった孤独。何時間かけて縫い上げた作品を、目の前で切り刻まれたあの夜の怒り。現実世界で「重い」と笑われるたびに、それでも一針一針に心を込め続けた、諦めない意地。

 そのすべてを、私は銀の針の先に乗せた。

「なびけ、黄金の糸! 私の悲しみも、苦しみも、全部まとめて縫い合わせてあげる!」

 ――シュッ!!

 放たれた糸は、もはや単なる魔力の束ではなかった。それは、私の「生きた証」そのもの。現実世界での三年間と、異世界での積み重ねを丸ごと凝縮した、黄金の意思だった。

 影の鋏を黄金のステッチが捉え、そのまま貯蔵庫の壁ごと、影そのものを巨大な刺繍の中に封じ込めていく。縫い留める。閉じ込める。解けない糸で、永久に。

「なっ……記憶を捨てるのではなく、負の感情を『素材』に変えただと!?」

 老人の驚愕の声が闇に溶ける。

 私は、空だった瓶の中に、ほんの少しだけ輝く「涙の滴」を落とした。それは、日本の母の味の記憶ではなかった。代わりにそこに宿ったのは、昨夜ウルとアルをメンテナンスした時の、あの熱い指先の感触だった。

「……過去は、返ってこないかもしれない。でも、この子たちと創る新しい記憶は、誰にも渡さない」

 黄金の光が貯蔵庫を満たし、侵食していた黒い影が、一瞬にして純白の綿へと浄化されていく。しかし、その力を使えば使うほど、私の心はどこか現実から浮き上がり、浮世離れした「職人の高み」へと引き上げられていくのを感じていた。

「主様……すごいです。影を、力ずくで従わせるなんて」

 ウルが私の腰にしがみつき、震える声で言った。

「……ええ。ですが結衣様、その代償に……貴女の瞳から、また少し光が消えました」

 アルの言葉に、私は静かに微笑んだ。鏡を見なくても分かる。私の瞳は今、人間のものではなく、あの巨神人形や守護獣たちと同じ、透き通った魔力の石の色に近づいている。それでも、私の手は震えていなかった。



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