第十八話 ウルとアルの「メンテナンス」
「……っ、あ……」
静まり返った夜の工房に、短い悲鳴が響いた。
振り返ると、そこには人間姿を維持できなくなったウルが、床に膝をついて肩で息をしていた。彼の右腕からは、黄金の光が砂のように溢れ出し、肌の質感がまるで古い羊毛のように毛羽立っている。普段はふわふわと柔らかな蜂蜜色の髪も、艶を失って乾いていた。
「ウル!? どうしたの、その腕……」
「大丈夫、ですよ主様。……ちょっと、魔力が空回りしてるだけ……」
強がるウルの隣で、アルもまた壁に手をつき、苦しげに胸を押さえていた。彼の蒼い瞳は、ひび割れたガラスのように光を乱反射させている。眼鏡の奥の視線が、焦点を結べずに揺れていた。昨夜の真夜中の訪問者が置いていった黒い糸が、その傍らで鈍く光った。
「私のせい……。私が不安になって、針を迷わせたから……!」
「違います、結衣様。これは……我々の宿命なのです」
アルが掠れた声で告げた。彼らは叔父・ジョンによって作られた最高傑作の守護人形。そして彼らの命の糸は、主である私の精神状態と直結している。私が記憶を失い、自己の輪郭が不透明になれば、彼らを繋ぎ止める芯材もまた、その強度を失ってしまう。私が削られるたびに、二人もまた、一緒に削れていくのだ。
「……脱いで。二人とも」
私は震える手で、作業台のランプに火を灯した。初めて、彼らを「家族」や「守ってくれる人」としてではなく、一人の職人として、一柱の人形として直視する決意を固める。どんなに怖くても、逃げてはいけない。この子たちは、私の手が必要なのだから。
「メンテナンスをするよ。……私が縫い直す。バラバラになんて、絶対にさせない」
ウルとアルは、互いに顔を見合わせると、覚悟を決めたように私の前で衣を脱ぎ捨てた。露わになった彼らの背中には、複雑怪奇な刺繍の紋章が刻まれている。それは叔父・ジョンが一生をかけて編み出した、禁忌に近い術式だった。見ているだけで、目眩がするほどの情報量を持つ、膨大な愛の設計図。
私は銀の針を、ウルの背中にある黄金の芯糸へと差し込んだ。
――その瞬間。
(……結衣が一人になった時、この子たちが盾となり、矛となるように)
(彼女の涙を拭い、彼女の孤独を、愛という名の檻で閉じ込めるために……)
叔父の思考が、濁流となって私の中に流れ込んできた。
彼らは、私が現実世界で独りぼっちだったから創られたのではない。いつか私が職人として「人間」を失い始めた時、私をこの世界に繋ぎ止めるための重石として、最初から歪な愛を注ぎ込まれて生まれてきたのだ。私が遠くへ行こうとするたびに、優しく手首を掴んで引き戻すための存在として。
「……ひどいよ、おじさん。こんなの、呪いじゃない」
私は泣きながら、ほつれかけたウルの芯糸を、新しい魔力の綿で包み込み、一針ずつ縫い固めていく。指先から伝わってくるのは、ウルの、そしてアルの、狂おしいほどの忠誠心。「主様を独りにしない」「主様をどこへも行かせない」……その想いが、私の針を通じて、私自身の心に逆流してくる。
「……あぁ、あったかい……。主様の針が、僕の奥まで届いてる……」
ウルが恍惚とした声を漏らし、私の膝に顔を埋めた。その感触は、子どもがお母さんに抱きしめられた時の安堵と、それよりもずっと深くて暗い何かが混ざっていた。
「結衣様……。我々は、貴女の喪失を埋めるために存在しています。貴女が何かを忘れるたびに、我々の糸はより太く、貴女の魂に絡みつくでしょう。それが、ジョンの旦那様が最初から仕込んだ設計です」
アルが私の手首を掴み、その針先を自分の胸元へと導く。彼を縫い直せば縫い直すほど、彼との絆は重くなり、私はますますこの店から、この二人から離れられなくなる。それを知っていて、それでもアルは私の手を誘っていた。
(……それでもいい。忘れていく私が、最後に行き着く場所がここなら)
私は、自分の指先から零れる魔力の滴を、彼らの術式の隙間に流し込んだ。一針ごとに、私たちの距離は縮まっていく。絡み合っていく。解けなくなっていく。
メンテナンスが終わる頃、二人の肌には瑞々しい輝きが戻っていた。ウルの右腕から溢れ出していた黄金の光は収まり、アルの瞳も元の澄んだ蒼に戻っている。ただ、その瞳の奥に宿る熱は、以前よりもずっと深く、暗い独占欲を孕んでいた。私の魔力が彼らの体の奥まで流れ込んだことで、二人は以前よりも強く私と繋がってしまった。それは職人の失策ではなく、最初からこうなるように設計されていた必然だと、今の私には分かる。叔父が最初から仕込んでいた、歪な愛の設計図の通りに。
「終わったよ。……もう、大丈夫」
「はい、主様。……ねえ、もう一回、抱きしめてもいい? 主様の魔法が、まだ体の奥で熱いんだ」
ウルの腕が私の腰に回る。アルの唇が、私の耳元でゆっくりと「ありがとうございます、結衣様。貴女の針は、今日も奇跡を起こしてくれた」と囁いた。その声は、いつもより低く、ひどく近かった。
喪失の恐怖は消えない。いつか私は、この子たちの顔も名前も忘れてしまうかもしれない。けれど今この瞬間、二人の温もりに侵食されていくこの甘い感覚が、今の私には何よりの救いだった。失われていく私を、この子たちが必死に縫い止めようとしてくれている。それだけで、もう少しだけ、針を握り続けられる気がした。




