第十七話 影を縫い止める「真夜中の訪問者」
裏庭を侵食する「影」の勢いは、日を追うごとに増していた。
美しいクリスタルの花々は根元から黒く萎れ、かつて甘い香りを放っていた梨の木は、いまや腐った果実と古いインクが混ざったような、胸の悪くなる匂いを漂わせている。銀糸で縫い上げた結界が、ミリ単位で食い破られていく感触が、指先を通じて絶えず私に届いてきた。
「……逃がさない。これ以上、勝手にはさせないから」
深夜。私は一人、作業台に向かっていた。手にしているのは、王宮での報酬として得た最高級の銀糸。それに裏庭で採取した光の綿を極限まで細く紡ぎ合わせ、特殊な「封印のカーテン」を縫い進めていた。一針通すごとに、指先から熱が奪われる感覚がある。けれど、手を止めるわけにはいかなかった。私が何かを忘れるたびに、この影が勢いを増しているような気がしてならなかったから。
「主様、根を詰めすぎですよ。……少し、お休みになりませんか?」
背後からアルが声をかけ、私の肩に温かいブランケットを掛けた。ウルの姿は見えない。彼は今、裏庭の境界で影が店の中にまで入り込まないよう、黄金の炎を灯して結界を維持してくれている。その炎の橙色が、窓ガラス越しにちらちらと揺れていた。
「大丈夫。あと少しで、この窓を塞げるから」
「……そうですか。ですが、あまりご自分を削りすぎないでください。貴女が透明になってしまうのが、私は何より恐ろしい」
アルが私の手首をそっと掴む。その力は、折れてしまいそうなほど繊細で、同時に、決して離さないという執念に満ちていた。普段の、冷静で計算高いアルらしくない、生々しい感情だった。
その時だった。
カラン、コロン……。
深夜のはずの店内に、来客を告げる鈴の音が静かに響いた。私とアルは顔を見合わせ、警戒しながら一階の店舗へと下りた。
そこに立っていたのは、地面に届くほど長い、ボロボロの灰色のマントを羽織った老人だった。深く被ったフードの影から、唯一、ガラス玉のように無機質な義眼だけが怪しく光っている。全身からは、古い時計の内側のような、錆と油の混ざった奇妙な匂いが漂っていた。
「……どなたですか? 本日の営業はもう……」
「ジョンの……いや、『聖針』の継承者よ。無駄な足掻きはやめるがいい」
老人の声は、枯れ葉が擦れ合うような、ひどく乾燥した響きだった。彼は店内に並ぶぬいぐるみたちを一瞥し、ふん、と鼻で笑う。その義眼が、私の手元にある封印のカーテンへとゆっくりと向けられた。
「影を縫い止めようなどと、傲慢な。……お前が記憶を失うのは、職人の欠陥ではない。それは、神の視点――すなわち、この世界の『真の理』を見るための、皮を剥ぐ儀式なのだ。ジョンもまた、そうやって人間を脱皮しかけていた」
「真の理……? おじさんも、そうだったっていうの?」
「ジョンは弱かった。思い出という名の重荷を捨てきれず、結局、未完成の庭を残して消えた。……娘よ。お前が『人間』であることを捨てれば、その影さえも自在に操る、真の創造主になれるのだぞ。この世界の隅々まで、お前の針が届くようになる。人形だけでなく、命そのものを縫える、本物の神に」
老人の言葉が、鋭い針のように私の胸を刺す。人間であることを捨てる。それは、母の味を忘れるだけでなく、ウルやアルとの楽しい毎日さえも「不必要なデータ」として切り捨てることを意味するのではないか。ジョンの人形店も、あの修復されたぬいぐるみたちの笑顔も、全部、単なる過程に過ぎなくなってしまうのではないか。
「……断ります」
私は、震える手で銀の針を強く握りしめた。
「私は、おじさんの跡を継ぎたいと思ったけれど、神様になりたいなんて思っていない。私は、私の大好きなこの子たちと一緒に笑うために、職人をやっているの。……思い出を捨てなきゃ直せない世界なんて、私は絶対に認めない!」
「……ふむ。強情なところもジョンに似ているな」
老人は義眼を細め、マントの下から一塊の「黒い糸」を取り出し、カウンターに置いた。その糸は、見ているだけで目眩がするような、深淵の色をしていた。
「ならば、精々その『心』とやらを削り続けるがいい。……だが覚えておけ。お前がすべてを忘れた時、その双子のクマが、お前にとって『ただの人形』に見える日が来る。……その時こそ、お前の地獄の始まりだ」
老人は霧が晴れるように、忽然と姿を消した。静まり返った店内で、私は立ち尽くしていた。
「主様……」
アルが背後から私を抱きしめる。その腕の力は、これまでにないほど強かった。温かな体温が、震えていた私の背中を包む。
「……何があっても、私をただの道具だなんて思わせません。もし貴女が私を忘れても、私が貴女の心に、何度でも私という存在を縫い付けてみせますから。貴女が神になろうとも、私だけは、貴女に人間の温度を思い出させてみせる」
アルの囁きは、誓いであり、そして呪いのようでもあった。私は、カウンターに残された黒い糸を見つめながら、これから訪れる「喪失」の嵐に、独り身を震わせた。




