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第十六話 朝の光と、消えた「レシピ」



 窓から差し込む朝陽が、部屋の中に浮遊する魔法の綿を白く透かしている。

 王宮から戻った翌朝。私はベッドの中でゆっくりと目を開けた。隣には、小さなクマの姿に戻ったウルが私の腕枕でこんもりと丸くなって寝息を立て、足元ではアルが毛布の端を整えるようにして、座ったまま微睡んでいる。金縁の眼鏡が少しだけ傾いて、普段の完璧な身のこなしからは想像もつかない、あどけない表情を晒していた。

 いつも通りの、幸せな朝のはずだった。

(……お腹すいたな。何か作ろうかな)

 ふと、実家にいた頃、母がよく作ってくれた朝ごはんの風景が頭に浮かんだ。台所から聞こえるトントンという包丁の音。お味噌汁の湯気。炊き立てのご飯の匂い。土鍋の蓋を少しだけずらして、白いもやが細く立ち上るあの光景。

 けれど、その「味」を思い出そうとした瞬間、私の思考にザアァ……と砂嵐のようなノイズが走った。

「……え?」

 お味噌汁の具は何だったっけ。隠し味に入れていたのは、何? それどころか、あの優しい甘さの正体すら、今の私にはまるで思い出せない。大好きだったはずの、あの温かな家庭の味が、まるですりガラスの向こう側に隠されたように、どうしても手繰り寄せられないのだ。

 指先が冷えた。胸の奥に、じわりと恐怖が広がる。昨日の祝宴の夜、国王に囁かれた言葉がよみがえる。「ジョンの瞳も、最後にはこの世界の景色を映さなくなっていた」。あれは比喩ではなく、こういうことだったのか。

「主様……? どうしました、そんなに青い顔をして」

 いつの間にか目を覚ましていたアルが、人間姿に戻って私の顔を覗き込んでいた。眼鏡の奥の蒼い瞳が、鋭く私の異変を察知する。寝起きで少しだけ乱れた焦がしキャラメル色の髪が、朝陽の中でほのかに揺れていた。

「アル、私……変なの。お母さんの料理の味を、思い出せないの。あんなに、あんなに何度も食べて、私の体を作ってきたはずの記憶なのに。指先で再現できるほど染み込んでいたはずの記憶なのに、今はもう……霧の中に消えちゃったみたいで」

 喉の奥がキュッと締まる。巨神人形アイギスを修復した代償として、私の中から何かが抜け落ちていた。国王が警告してくれた通りだ。この世界の理は、奇跡を起こすたびに、職人から「自分という素材」を徴収していく。

「思い出せない? ……ああ、それなら、ちょうど良かった」

 聞き慣れた蜂蜜色の声がして、ウルが私の背中に腕を回した。彼もまた、いつの間にか美少年の姿に戻り、首筋にふわりと顔を埋めてくる。驚くほど、その声は明るかった。悲しむどころか、どこか喜んでいるような、艶やかな響きを帯びていた。

「思い出せないなら、全部上書きしちゃえばいいんですよ。ねえ、主様。そんな遠い世界の、もう会えない人の味なんて、もう必要ないでしょ?」

「ウル……?」

「これからは、僕たちが作る味が、主様のすべてになればいい。僕たちの温度、僕たちの匂い、僕たちが教える新しい記憶……。それだけで、主様を満たしてあげますから。遠い記憶に泣くより、今ここで笑っていてよ」

 ウルの指が、私の髪を愛おしそうに梳く。その動作は限りなく優しいけれど、逃がさないという強い意思が指先に宿っているのを感じた。やわらかな檻の格子を、ゆっくりと組み上げるような手つきだった。

「主様。失うことを恐れないでください」

 アルが私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。眼鏡の縁の向こうで、普段は冷静な瞳が、今だけは熱く焦がれるように細まっている。

「貴女が過去を忘れるたびに、空いたその隙間に、我々が新しい愛を縫い付けて差し上げます。それは、決して解けることのない、我々だけの特別なステッチです。職人の手で縫われた絆は、世界の摂理よりも強固なのですから」

 二人の瞳が、陶酔したように私を見つめている。記憶が消えていく恐怖。けれど、それ以上に「この子たちがいれば、私は私でいられる」という、毒のような安心感が私の心を侵食していく。あたたかくて、甘くて、少しだけ息苦しい、そんな感覚。

「……二人とも、ありがとう。……お腹、すいちゃった」

「はい、主様。とびきり甘い朝食を用意しましたよ。過去のどんな料理よりも、貴女を幸せにする味です」

 アルに導かれ、私はふらつく足取りで一階へと下りた。テーブルには、見たこともないほど豪華な料理が並んでいる。けれどその美しい盛り付けは、誰かに見せるためではなく、私だけのために整えられた、閉じた世界の宴のようだった。

 一口食べたその味は、確かに美味しかった。けれど、その甘さは、私の胸の奥に空いた穴を埋めるというよりは、その穴を塞いで閉じ込めてしまうための、甘い蜜の蓋のようだった。

 窓の外では、裏庭の影が、昨日よりも一寸だけ、色を濃くしていた。



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