第十五話 裏庭の「影」との再会
王宮での狂乱から逃れるように、私たちは懐かしい『ジョンの人形店』へと帰り着いた。
使い込まれた木の床の匂い、棚に並ぶ修復待ちのぬいぐるみたち、キッチンから漂うわずかな茶葉の香り。旅から帰った者だけが感じる、深くなった愛着が胸に満ちる。
「……はぁ。やっぱり、ここが一番落ち着くね」
私はカウンターに寄りかかり、ようやく深い息を吐いた。けれど、胸の奥に空いたひと針分の空白は、家に帰っても埋まることはなかった。
「主様、少しお休みになった方がいい。顔色がまだ真っ白ですよ」
ウルが心配そうに私の頬に触れる。その手触りが、どこか遠い異国の物語を読んでいる時のように、現実感を欠いて感じられた。
「……ねえ、二人とも。裏庭の様子を見てきてもいい? なんだか、あの子が呼んでいる気がするの」
二人の制止を振り切り、私は店の奥の扉を開けた。
そこには、いつものように魔法の綿が舞い、クリスタルの花々が咲き乱れる美しい裏庭があるはずだった。
「……っ!? なに、これ……」
庭に足を踏み入れた瞬間、私はその場に凍りついた。
庭の中央に鎮座する、あの巨大なテディベア。かつて私が黄金の糸で完璧に修復したはずのその足元から、どろりとした漆黒の影が、まるで生き物のように地面を這い回っていたのだ。それは蔓のような形をして、梨の木の根元を締め上げ、美しい青い花々を黒く枯らしていく。甘かったはずの空気は、腐った果実と古いインクが混ざったような、胸の悪くなる匂いに変わっていた。
「主様、下がって! 触っちゃダメだ!」
ウルが瞬時に獣の姿を現し、鋭い爪で影を切り裂く。けれど影は霧のように形を変え、切られた先からさらに増殖していく。
「アル、これは一体……! 私、ちゃんと直したはずなのに!」
「……修復が完璧すぎたのです、結衣様」
アルが苦渋に満ちた表情で、黒く染まっていく地面を見つめた。
「貴女が王宮で巨大な奇跡を起こし、この世界の光を強くしすぎた。その反動で、叔父様がこれまで必死に裏庭の底に押し込めていた世界の歪みが、溢れ出してしまったんです」
黒い影の蔓が、巨大なテディベアの胸元へと伸びていく。私が縫い合わせた黄金のステッチを、まるで嘲笑うように黒い糸が侵食し、解いていく。
その影の中から、一通の古びた手紙が、私の足元に滑り落ちた。
震える手でそれを拾い上げる。そこには叔父・ジョンの、走り書きのような乱れた筆跡があった。
『結衣、もしこの影が見えるようになったなら、もう逃げることはできない。何かを創る者は、その影に潜む「喪失」をも引き受けなければならない。私は、お前の記憶を代償にしてまで、この世界を守る勇気が持てなかった。……すまない、結衣。お前には、私とは違う道を選んでほしい』
「おじさん……記憶を代償にって、どういうこと……?」
その時、影の中から一つの形が浮かび上がった。それは叔父の姿によく似た、けれど瞳に光のない漆黒の人形。人形はゆっくりと私に向かって手を伸ばし、掠れた声で囁いた。
『――継承せよ。さもなくば、すべてを忘却の彼方へ』
どくん、と心臓が跳ねた。私の指先から、感覚が消えていく。
王宮でアイギスを直した時、私は確かに何かを失った。そして今、目の前の影が、私の残りの記憶を、心を、素材として喰らおうとしている。
「……させない。私の思い出も、この子たちとの毎日も、一針だって渡さない!」
私は震える手で銀の針を構えた。けれど、黄金の糸はもう出ない。針先から溢れ出したのは、私の動揺を映したような、弱々しい灰色の光だった。
美しい裏庭が、夜の闇に呑まれていく。私の「聖針職人」としての本当の試練は、ここから始まるのだと、絶望の中で私は悟った。
(第三章 完)




