第百三話 アルの「わからないこと」が増えた
帰路の三日目、夕方だった。
甲板で航路の地図を広げていると、アルが来た。珍しく、仕事の話ではなさそうな顔をしていた。眼鏡のブリッジをいつもより少し多く押し上げていた。
「結衣様、少し話してもいいですか」
「どうぞ」
アルは私の隣に座った。しばらく海を見ていた。
「この旅で、計算できないことが増えました。……それが不思議と、嫌ではないんです」
「嫌じゃない?」
「はい。以前の私は、計算できないことは脅威でした。管理できないことは、排除しなければならないと思っていた。でも今は……計算できないことの中に、大事なものがあると分かった」
「たとえば?」
アルが少し考えた。眼鏡の奥の瞳が、柔らかかった。
「ウルが主様の隣で寝てしまう回数とか。ノアが折り紙を上手く折れない理由とか。レオネルが蜂蜜茶を持ってくるタイミングとか。……計算外なのに、全部温かい」
私は思わず笑った。
「そういうことを、今のアルは言えるんだね」
「言えるようになりました。……主様のおかげです」
「私は何もしてないよ」
「いいえ、してくれました。……主様は、私が計算で閉じ込めようとした時も、怒らなかった。怖がらなかった。ただ、針を持って前に進んでいた。その背中を見ていたから、私は変われた気がします」
アルがそこで少し止まった。それから、いつもより体ごと私の方を向いた。
「……もう一つ、言っていいですか」
「どうぞ」
「主様が笑う顔が、好きです。この旅で、いつも元気をもらっていました」
真っ直ぐな言葉だった。アルらしくない、計算も回り道もない、真っ直ぐな言葉だった。私が何も言えないでいると、アルが少し耳を赤くして付け加えた。
「……タイミングを見極めた結果、今だと判断しました」
「ウルに先を越されなかったね」
「今日は先に来ました」
「えっ俺より早かったの!?」
後ろからウルの声が飛んできた。聞いていた。
「盗み聞きしないでください」
「してないよ! たまたま来たら聞こえた! で、主様は何て言ったの?」
「秘密です」
「えー! アルずるい!」
ウルが走ってきて、アルの隣に割り込んだ。アルが「押さないでください」と言い、ウルが「押してない」と言った。二人が私の両側で言い合っている。
でも今日は、アルの方が少しだけ先にいた。それが分かって、アルがほんの少し口の端を上げていた。




