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第百話 感情が解放される夜



感情の解放は、夜に行われた。

首領の術式の停止と、私の針による縫い合わせを同時に行う必要があった。準備に数時間かかった。アルが首領の術式の構造を解析し、どのタイミングで針を通すべきかを計算した。ノアが深淵魔法で術式の流れを確認し、異常があれば止める役割を担った。ウルとレオネルが廃都市全体を警戒し、ルカが感情の流路を把握した。

全員に役割があった。全員がそれを理解していた。

夜の十時、首領が術式の核に手を当てた。

廃都市全体が、静かに振動を始めた。地面からではなく、空気の中から来る振動だ。建物の壁に染み込んでいた感情の光が、一斉に動き始めた。

私は中央の装置の前に立ち、銀の針を構えた。

首領が術式を解いていく。蓄積されていた感情が、一気に溢れ出そうになる。それを、私が縫い合わせていく。溢れ出した感情を消すのではなく、世界に向けて丁寧に送り出す。一針ごとに、方向を整える。速すぎず、遅すぎず。乱暴に解放すれば、世界中の人々が突然激しい感情の波に飲み込まれる。

「主様、南の流れが乱れてます!」

ノアの声が飛んだ。私は針を南に向けた。乱れた流れを縫い止め、整える。

「東も!」

アルの声。針を動かす。

一時間、ひたすら針を動かし続けた。汗が額を伝った。指先が熱くなった。でも止められない。止めれば、感情の奔流が制御を失う。

二時間が経った頃、流れが落ち着いてきた。

蓄積されていた感情が、少しずつ、確実に世界へ還っていく。怒りは怒るべき誰かのところへ。悲しみは悲しんでいる誰かのところへ。喜びは笑っている誰かのところへ。それぞれが、本来あるべき場所へ、丁寧に届けられていく。

三時間後、廃都市の建物の光が消えた。

建物が、ただの古い石造りの建物になった。感情の密度が下がった。空気が軽くなった。夜の冷たさが、普通の冷たさになった。

私は針を下ろした。

膝が笑っていた。ゆっくりとその場に座り込んだ。銀の針が、手の中でちかりと光ってから、落ち着いた。針が重くなっていた。今夜縫い合わせた全ての感情の重さを、少しずつ記憶している。

「主様!」

ウルが走ってきた。私が座り込んでいるのを見て、飛びつくように隣に来た。

「大丈夫!? 怪我してない? 顔色が……」

「大丈夫。ちょっと疲れただけ」

「ちょっとじゃないでしょ、三時間ですよ!」

アルがウルを押しのけて、私の手を取った。脈を確かめる。指先が震えているのが分かって、アルの顔が険しくなった。

「体を温めます。動かないでください」

「アル、私は大丈夫だって」

「大丈夫かどうかは私が判断します」

有無を言わせない声だった。以前の、閉じ込めようとしていた頃の強引さとは違う。心配で、どうしたらいいかを知っていて、だからやる、という声だ。私は大人しく任せた。

ノアが毛布を持ってきた。どこから調達したのか分からないが、しっかり温かい毛布だった。ルカが遠くで首領と何か話している。レオネルが廃都市の出口の方向を確認していた。

全員が泣いていなかった。ルカだけが、私には見えない角度で、少しだけ目を拭っていた。気づかなかったふりをした。

首領が歩いてきた。

人形を、胸に抱いていた。

「ありがとう」

首領が言った。私に向けた言葉だったが、全員に向けた言葉にも聞こえた。

「……あの人が縫ってくれた人形が、まだ温かい。それだけで、今夜は十分だ」

廃都市の夜に、星が出ていた。建物から光が消えた分、星がよく見えた。誰かの喜びと悲しみと怒りと愛情が、今夜世界に戻っていった。それを縫い合わせた針が、私の手の中で静かに眠っていた。

ウルが私の頭を、そっと自分の肩に引き寄せた。

「少し寝て、主様」

「ここで?」

「ここで。僕が起こすから」

目を閉じた。ウルの肩が、温かかった。廃都市の夜が、静かだった。


(第二十章 完)


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